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この記事の目次
- 1ページ目
- 二人の同盟:桶狭間後の信長と長政
- お市の方の輿入れ~同盟締結
- 1.美濃攻略のための同盟:
- 2.勢力安定と拡大への準備同盟:
- 2ページ目
- 3.足利義昭を奉じての上洛の安全確保のための同盟:
- 信長、長政にとっての同盟のメリットは?
- 蜜月から一転裏切りへ 佐和山での会見~観音寺城攻め~上洛
- 朝倉攻めの決断~そして裏切りに繋がる疑問
- なぜ、信長は出陣要請しなかった
- 長政の裏切り:金ヶ崎の退き口
- 3ページ目
- 虚構だった金ヶ崎の退き口
- 長政裏切りの真意とは?
- 悟空さんの中間まとめ
- 姉川の合戦:信長、京から岐阜へ
- 4ページ目
- 信長出陣、姉川の戦いへ
- 志賀の陣:第一次信長包囲網の形成
- 長政、琵琶湖西岸から攻め上る
- 一時休戦、長政最大のチャンスを逃す
- 小谷城陥落へ:第二次信長包囲網の形成
- 5ページ目
- 信長、再び小谷城へ出陣
- 小谷城陥落~長政の死
- 浅井氏滅亡その後
- 戦国ライター悟空さんの独り言
3.足利義昭を奉じての上洛の安全確保のための同盟:
そして最後は永禄10年(1567年)、しかも美濃攻略がなった翌月というものです。この場合、美濃攻略のためという名分は存在せず、次の戦略への一歩ということになります。この時期、信長には越前の朝倉家に身を寄せていた足利義昭を奉じて上洛するという意図が明らかに存在しており、長政との同盟は近江の国を安全に通過し京へ上る道筋を確保するためのものと考えられます。
筆者は三番目の説に与したいと考えます。
その根拠としては
1.この同盟の使者として西美濃に地盤を持つ不破光治が派遣されたと「浅井三代記」に記述があります。彼が斎藤家を離れ信長傘下に降ったのは他の西美濃の有力者の動向から稲葉山城陥落に近い時期であったと思われるからです。
*「浅井三代記」は江戸時代に書かれたもので信憑性が乏しいのが欠点です
2.足利義昭の幕臣和田惟政が命を受けてお市の方と長政の婚姻を働きかけたという記録があり、それが永禄9年(1566年)頃でないかと思われること。
*義昭が同盟に関係しているということは、上洛に絡んでの同盟と見てよいのでは。
この2点を挙げておきたいと思います。
実際に少し早い時期(永禄8年=1565年)に信長は幕臣の細川藤孝あてに義昭を奉じての上洛の意志を表明しています。義昭は永禄8年から9年にかけて六角氏、斎藤氏も含めて近江から尾張にかけての四氏を和解させ、自らの上洛を果たそうとする動きを見せています。しかしながら京を支配する三好三人衆による工作があったのか、この中から六角氏と斎藤氏は離脱することになりました。義昭にとっては意志表明をしてくれている信長が頼りで離脱した二氏への対抗上、長政との同盟を成立させたかったのではないでしょうか?
信長、長政にとっての同盟のメリットは?
両家にとって義昭の斡旋は大きなメリットになったのではないでしょうか?
まず、信長にとっては義昭を奉じて上洛し将軍の座につけることは、自らの地位を室町幕府内で確固たるものにする意味がありました。信長は美濃攻略直後から「天下布武」の印章を使い始めていますが、これは五畿内(山城、大和、河内、和泉、摂津)に幕府の統治を確立させるという意味との説が現在では有力とされています。従来言われていた信長自身が武力で天下統一を果たそうと決意したという意味ではないのです。
この時期の信長はあくまでも室町幕府の正常化を成し遂げ、その組織内部での自らの地位より高いものにすると考えていたと思われます。この同盟は近江の国を安全に通過するため、すなわち六角氏との対抗上充分に効力を発揮するものでした。
長政にとっても室町幕府に対する奉公を果たすことができることは、北近江での地位を安定させることができることに繋がります。祖父亮政時代に大きな世話になった朝倉氏(信長との関係は悪かったと言われています)に義理立てしてこの同盟に反対を唱える家臣もいたと言われていますが、幕府のために同盟するという大義名分には抗うことはできなかったのではないでしょうか。
そして父の代から頭を悩ませていた斎藤氏、六角氏による圧迫から解き放たれ、宿敵六角氏を完全に抑え込めるこの同盟の意義は長政にとってとても大きなものがありました。この時期に長政は元々の六角義賢の一字をとった賢政という名を信長から一字をとった長政に改名しています。
蜜月から一転裏切りへ 佐和山での会見~観音寺城攻め~上洛
永禄11年(1568年)越前から義昭を迎え入れた信長はいよいよ上洛することになります。この年9月8日、近江高宮城(今の滋賀県彦根市)で信長と長政は初めて対面しました。信長はこの時34歳、長政は23歳。働き盛りで大大名に出世しつつある信長と若武者長政の対面は共に前途に明るい未来を感じるものであったことでしょう。
両者の対面から4日後、信長からの上洛の助力を拒否した六角氏を攻撃することになります。観音寺城の戦いです。信長1万5千人の兵に長政は3千人の兵をもって六角氏を攻撃します。この戦いはあっけなく六角氏の敗北でけりがつき、当主の六角義治はさらに南にある甲賀に敗走しました。これにより信長は易々と義昭を奉じての上洛を達成、長政は父の代から苦汁を飲まされ続けてきた宿敵六角氏を駆逐することで北近江を盤石のものにすることに成功します。
朝倉攻めの決断~そして裏切りに繋がる疑問
首尾よく上洛を果たし、京周辺の反義昭勢力の排除に成功し、義昭を第15代将軍に擁立した信長は、各地の大名に上洛して将軍義昭に挨拶するよう要求します。越前の朝倉氏はそれを無視します。これに対し、信長は元亀元年(1570年)4月、朝倉攻めを決断し織田・徳川連合軍約3万人の軍勢で越前・敦賀に攻め込みます。この出陣は当然、幕府・朝廷の命を受けた形を取っており、当初の出陣理由は若狭の武藤氏を攻めることにありました。信長は途中で矛先を朝倉氏に変更し、敦賀に兵を進めたのです。この出陣先で、長政の裏切りにあうのですが・・・。
なぜ、信長は出陣要請しなかった
まずそもそも、信長はなぜ同盟国であり、越前に隣接する北近江にいた長政に出陣要請をしなかったのでしょうか?あるいは要請はしたが、長政が出陣を断ったのでしょうか?
遥か三河の国から徳川家康は出陣しています。家康と長政、いずれも信長の同盟相手のはずです。伝えられている説としては、長政との同盟締結の際、長政側からは世話になった朝倉氏を攻撃しないとの条件で同盟に同意したというのがあります。現在ではこれはあまり信憑性のない話とされています。仮にそうだとしても今回の出陣は若狭の国を攻めるのが大義名分、これならこの条件には当てはまりません。
信長としては、若狭の国攻略が口実でありはなから朝倉氏攻めを企図していたのかもしれません。それで長政に声を掛けなかったのでしょうか?
この戦いに長政が当初から出陣していないのは、すでにこの同盟には綻びが生じていた可能性があるのかもしれません。
同盟の大義名分は義昭を奉じて上洛、そして室町幕府再構築にありました。それを達成して僅か二年足らずの間に、長政から見た信長に大きな変化を感じ取ったのかもしれません。信長は表面上は義昭を立ててはいますが、自らの自由に振る舞い義昭を利用する行為が明らかになりつつあります。前年とこの年には義昭に対して殿中御掟というのを制定し承認させています。義昭の行動には信長の許可を必要とし、一方信長は義昭の許可を必要とせず自由に振舞えるという内容を含んだものでした。それでも両者は決定的には対立しておらず、お互い助け合う姿勢はしばらく保たれますが、決裂の芽はすでに生まれていたと見てよいでしょう。長政からするとこの信長の専横ぶりに何らかの感情を抱いても不思議ではありません。長政にしてみれば、北近江に安定を築けたのは信長との同盟のおかげではありますが、この同盟は義昭の斡旋(和田惟政が義昭の命を受けてお市の結婚を斡旋した)によるもので室町幕府あっての同盟という意識が強かったのではないでしょうか。
長政の裏切り:金ヶ崎の退き口
越前の国敦賀に攻め込んだ信長軍は朝倉軍を圧倒します。朝倉軍は敦賀から撤退し、後方の木の芽峠を防衛線に守りを固めようとしました。まさにこの時、信長に長政の裏切りが伝えられたと言われています。
敦賀は北に日本海、三方は険しい山に囲まれている土地です。ここで南の北近江から長政軍が出てくると、東の朝倉勢と挟み撃ちに合う形になります。撤退する方向は南西方向に山道を抜けて行くしかなく、大軍を率いて短時間では抜け切れません。信長は僅か10人程度の馬廻衆とともに慌てて逃げ出し山道を駆け続け、京への脱出に成功します。殿軍は池田勝正を大将に羽柴秀吉、明智光秀らが務め、朝倉・浅井勢の攻撃を巧みにかわしながら逃げ切りを果たしたと伝えられています。これが有名な「金ヶ崎の退き口」と呼ばれている撤退戦です。
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