織田信長と浅井長政の同盟メリットは?長政裏切りの真意とは?

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長政裏切りの真意とは?(1P目)


信長、再び小谷城へ出陣

 

元亀3年(1572年)7月、信長は大軍をもって北近江に侵攻し、小谷城の目と鼻の先にある虎御前山に布陣、そこから南東方向の横山城まで数キロ(5~6キロ)に渡る要害を作ります。長政はこの危機に朝倉義景に援軍を頼み、朝倉勢は約20000人の兵力で援軍に来ました。しかしこの援軍ほとんど役に立たなかったようで、逆に有力家臣が次々と信長に寝返る始末でありました。長政の家臣でも小谷城と横山城の中間にあった宮部城の宮部継潤が木下秀吉により調略されています。信長は巨大な戦力を誇示することで、朝倉、浅井勢に恐怖させ、次々と調略を仕掛けて弱体化させていきました。四方を敵に囲まれた包囲網の内にあって兵力を温存しつつ、寝返りによる家臣の増強も計るという一石二鳥の戦略を採っていたのです。

 

11月にはそのころ虎御前山を守備していた秀吉に対し、朝倉、浅井勢は戦闘を仕掛けますがあっさり撃退され、朝倉勢は12月には越前に引き上げてしまいます。

 

武田信玄に挑む若き徳川家康

 

しかしこの頃には信長包囲網最大の勢力、武田信玄が甲斐から出陣し、12月には遠江の三方ヶ原で家康を完膚なきまでに叩きのめし、三河へ軍を進めようとしていました。

武田信玄を極端に恐れる織田信長

 

歴史にifがあるとすれば、信玄がこの後病に倒れることなく尾張、美濃に侵攻し、朝倉・浅井勢がひと踏ん張りできていれば、長島の一向一揆、京で蜂起する義昭、畿内の各反信長勢力との協力の元、信長はにっちもさっちも行かなくなっていたことでしょう。もちろん歴史は信長に味方しました。


小谷城陥落~長政の死

 

翌元亀4年(1573年)8月、小谷城の西方にある山本山城を守備していた阿閉貞征が秀吉の調略で寝返ったのを機に、信長は再び北近江に30000人の大軍を差し向けます。長政は5000人の兵で小谷城に籠城するしか道は残されていませんでした。朝倉の援軍は20000人で小谷城北方に陣取りましたが、信長の攻撃にあえなく敗退し、越前へ逃亡します。信長は小谷城を囲んだまま残りの兵力で朝倉勢を追撃、18日には義景の居城一乗谷城を焼き払い、20日ついに朝倉氏を滅亡させます。金ヶ崎の戦いから幾度も戦火を交えた信長と朝倉勢ですが、朝倉勢は一度も信長に勝利することなくあっけない最期となりました。越前での栄華に酔いしれていた朝倉勢と尾張、美濃、近江、畿内で常に激しい戦闘を続けていた信長とでは戦闘能力にかくも開きがあったと言わざるを得ません。

 

敵将の頭蓋骨を盃がわりにして酒を飲む織田信長

 

朝倉氏を滅亡させて信長は即座に小谷城攻城戦に挑みます。27日夜、木下秀吉が3000人の兵で長政の本丸と久政の小丸を分断すべく間にある京極丸を占領。さらに小丸を集中攻撃し久政を自刃に追い込みます。長政以下500人の兵力に減少した本丸はすでに丸裸状態でした。長政は嫡男の万福丸(永禄7年=1564年生まれ)を逃がした後、お市の方と娘三人を織田方に渡します。万福丸はその生年からお市の方の子ではなく、六角氏由来の先妻か側室の子と思われ、後に秀吉の捜索により発見され、関が原で串刺しの刑に処せられます。そして9月1日、長政は重臣赤尾清綱の曲輪で自害し、29歳の生涯に終わりを告げます。


浅井氏滅亡その後

 

長政の自害により浅井氏の栄華は三代で終止符が打たれます。しかしながらお市の方との間にもうけた三人の娘はそれぞれが歴史に名を残す女性として長政の血を後世に伝えています。

 

長女の茶々は言わずと知れた秀吉の側室淀君として、豊臣秀頼を生みます。次女の初は京極高次の正室に。京極高次はその名の通り北近江の名門で初とはいとこ同士でもありました。高次は関ヶ原の戦いの時、近江大津城に居城しており西軍の毛利勢や立花宗茂からの攻撃に耐え、15000人と言われる大軍を釘付けにし主戦場である関が原に赴くことを阻止しました。この勢力が関が原に参陣していれば家康も危うかったと思われ、この功績を評価されて若狭の国を与えられています。

 

三女の江は豊臣秀勝に嫁いだのち、家康の嫡男二代将軍秀忠に嫁ぎます。秀忠と間に生まれた長男が三代将軍家光、娘の和子は後水尾天皇に嫁ぎました。秀勝との間に授かった娘は貴族の九条家に嫁ぎ、その子孫は大正天皇の皇后節子となりました。江の子孫は男系女系共に今上天皇に繋がっているのです。すなわち長政の血は徳川将軍家と天皇家に脈々と受け継がれているということになります。

 

長政とお市の方は義理の兄との戦いの間においても仲睦まじかったようで、三女の江がまさに小谷城が落城した元亀4年(あるいは天正元年=1573年)に生まれています。一説にはお市の方は身重の体で小谷城において織田方に引き渡されたとも言われています。

 

戦国ライター悟空さんの独り言

戦国史ライター 悟空

 

信長は残虐で、エキセントリックな性格の持ち主であったと描かれていることが多いのですが、決してそうではなかったと思います。長政との戦いの後、長政と義景の頭蓋骨を盃にして酒を嗜んだという逸話が残っていますが、これもその残虐性を表すものとされてきました。しかしこれも新しい説ではそのような儀式を通じて死者に対する敬意を表すものというのが有力なようです。合理主義者である信長は寝返ったり、引き抜いた敵将でも適材適所に用いており、一方根絶やしにすべき敵には容赦しないこともその合理性を示すものだったのでしょう。

 

また、長政には大局観がなく、信長の本質を見抜くことができなかったのではないでしょうか?意外に最後まで付き従った家臣たちが、長政を滅亡の道へと導いてしまったのかもしれません。荒木村重や松永久秀のように信長に牙を向いた後に軍門に降り重用された大名もいたように長政にも再度信長に降って生き延びる方法もあったかも、と思います。

 

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