織田信長と浅井長政の同盟メリットは?長政裏切りの真意とは?

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長政裏切りの真意とは?(1P目)


信長出陣、姉川の戦いへ

竹中半兵衛(軍師

 

まずは西美濃と北近江の境界にある長比城を守る長政の部下、堀秀村を調略します。この時活躍したのが木下秀吉の軍師として名をはせた竹中半兵衛のようです。西美濃出身の半兵衛は秀村の家老であった樋口直房と親しかったため、直房を通じて秀村の調略に成功します。この後の長政との戦いでは、しばしば調略によって長政の家臣を寝返らせており、秀吉と半兵衛が果たした役割は大きいものと言えます。

 

この長比城を我が物としたことで一気に北近江への道が開けます。元亀元年(1570年)6月21日、信長は北近江になだれ込みました。信長は長政の本城である小谷城から目と鼻の先にある虎御前山に布陣し、部下に命じて小谷城下を焼き払った後、いったん退却し、約7km離れた姉川の南に陣を構えました。この時点では朝倉氏の軍勢、徳川家康の援軍いずれもまだ到着していません。信長は姉川の南岸近くにある横山城を包囲し、攻め落とそうとします。このあたりで朝倉・家康共にそれぞれの陣営に参陣したようです。

 

長政にしてみれば横山城を取られるとそれより南へ進出することもできず、小谷城に押し込まれてしまいます。さらには横山城より南に配置されている家臣達との連絡・連携も不自由になることもあり、すぐに援軍に向かうこととしました。

 

6月28日、朝倉・浅井勢は姉川の北側に布陣します。朝倉勢は8000人、浅井勢は5000人であったと言われています。一方の信長勢は10000人、家康勢は3000人であったと言われています。(合戦における出陣人数は資料によってバラつきが大きく確実な数字ではありません)

 

一番合戦を希望した家康がまず西側にいた主に朝倉勢で構成された一軍に襲い掛かります。次いで信長は東側の主に浅井勢へ。当初は一進一退の激しい戦闘が行われたようです。江戸時代に書かれた「浅井三代記」には長政の重臣磯野員昌が信長本陣に迫る勢いで突撃したが、後巻きしていた信長の西美濃三人衆が駆けつけ何とか本陣を守ったとあります。後世の脚色が色濃い記述ですが、それほどに厳しい戦いだったのでしょう。その後は家康麾下の榊原康政が朝倉勢の側面に隙を見つけ襲い掛かると朝倉・浅井勢は総崩れとなりました。まずは朝倉勢が敗走、次いで長政も小谷城へと逃げ戻ることとなり、この戦いは信長・家康連合軍の大勝利となりました。信長は小谷城下までなだれ込み、一気に勝負をつける勢いを示しましたが、籠城に移った長政を討ち果たすことは難しいと見たのか陣を戻し、横山城を攻め落とします。

 

信長にしてみればこの横山城を手中に収めることができれば朝倉・浅井勢は南へ下ることができず、近江の通行の安全がある程度確保できることから、この出陣の最低限の目標であったのでしょう。もちろんここで一気に朝倉・浅井勢を駆逐できればベストであったでしょうが、すでに畿内では荒木村重と三好三人衆が不穏な動きを見せていたこともあったのか、横山城に秀吉を城番として留め置き、岐阜へと引き上げました。(実際に6月19日に摂津で信長に与していた池田勝正が家臣の荒木村重により追放されており、これは村重と三好三人衆が結びついての行動でした)


志賀の陣:第一次信長包囲網の形成

荒木村重

 

姉川の戦いの勝利も束の間、畿内では荒木村重の蜂起に合わせて元亀元年(1570年)7月、四国へ退避していた三好三人衆が摂津に上陸し、野田城・福島城(現在の大阪市福島区あたり)に立て籠もり反信長ののろしをあげます。8月に入って信長は岐阜を出立、26日に天王寺に着陣しました。ここで動き出したのが石山本願寺(現在の大坂城と同じ場所にあった)に本拠を置いていた本願寺顕如です。各地の一向宗(浄土真宗)門徒に檄文を発して蜂起を促すなど、反信長の旗幟を鮮明にしました。9月10日には顕如は長政に対しても書状を送っています。ここに第一次信長包囲網が形成されます。

 

本願寺顕如

 

この第一次信長包囲網は主に下記の勢力で形成されていました。

1.摂津石山本願寺の本願寺顕如

2.摂津野田城の三好三人衆(三好長逸、三好宗渭、岩成友通)

3.摂津池田城の荒木村重

4.越前の朝倉義景

5.北近江の浅井長政

6.南近江の六角義賢

7.比叡山延暦寺の僧兵

8.紀州の雑賀衆

9.伊勢長島の一向一揆衆


長政、琵琶湖西岸から攻め上る

 

摂津での顕如らの蜂起に呼応して、9月16日朝倉・浅井の連合軍は琵琶湖西岸を南下し京へ攻め上るため宇佐山城(現在の滋賀県大津市)に迫ります。この時信長は、摂津の三好勢、本願寺勢の対処に追われており、そちらに在陣しています。信長の判断としては、朝倉・浅井連合軍より摂津の敵対勢力の方が厄介だったのでしょう。宇佐山城の森可成はわずか1000人の軍勢で30000人の朝倉・浅井軍に対することになります。ほどなく南近江から味方2000人が着陣し、可成勢は宇佐山城から北の坂本あたりに陣を敷きますが、19日には延暦寺の僧兵が朝倉・浅井軍に加わり、一気に可成勢に襲い掛かりました。この戦闘で森可成は討ち死にしますが、宇佐山城に残った兵は朝倉・浅井軍の猛攻に持ちこたえます。なお、森可成は古くからの信長の家臣で尾張統一以前から各地の戦で数々の武功を挙げています。信長は彼の死を悲しみ、これが翌年の比叡山焼き討ちの一因とも伝えられています。

 

朝倉・浅井軍は宇佐山城は落とせなかったがさらに兵を進め、21日には京から東山連山を隔てた山科・醍醐あたりまで到達します。この報を受けた信長は京の危機を重く見て摂津から急ぎ退陣し、京まであわてて戻ります。朝倉・浅井軍はこれを聞き、兵を比叡山まで退却させます。信長と朝倉・浅井軍、まともに戦えば、信長の方にかなり分があったのでしょう。京を目の前に腰砕けになり、朝倉義景にとっては信長にとってかわる最大のチャンスを逃すことになりました。


一時休戦、長政最大のチャンスを逃す

 

信長にしてみれば比叡山が朝倉・浅井軍に与したことが厄介で、一気にこれら勢力を排除することができなくなりました。この状況の中、各地で反信長勢力が続々と立ち上がります。先に挙げた第一次信長包囲網が機能し始めたのです。この時点での各方面での情勢は次の通りでした。

 

1.摂津方面:三好勢などが京に上ろうとするのを和田惟政が防いでいる

2.南近江方面:六角勢と一向一揆衆を木下秀吉と丹羽長秀そして家康が撃破

3.伊勢方面:長島の一向一揆が勃発、信長の弟信興が討ち死に

4.比叡山周辺:朝倉・浅井軍とのにらみ合い状態

 

11月25日には坂本のすぐ北にある堅田で戦闘があり、信長側はこれまた重要な家臣である坂井政尚を失っています。

 

信長は戦況を打開するため、義昭を頼んで朝倉・浅井軍と講和に動きます。一方の朝倉義景も豪雪の時期を目前に越前への撤退を考えていたようで、12月13日義昭からの講和を受け入れて兵を引き上げました。ここに志賀の陣が終結するとともに第一次信長包囲網の一角が崩れることになります。

 

信長はこの志賀の陣で、当時、近江から畿内にかけての統治で重要な役割を果たしていた森可成と坂井政尚を失う痛手をうけた一方、朝倉・浅井軍は京に旗を立てる千載一遇の機会を逃すことになりました。


小谷城陥落へ:第二次信長包囲網の形成

 

年が明けて元亀2年(1571年)2月、信長は佐和山城の磯野員昌を攻めます。員昌は長政の家臣として浅井四翼と呼ばれ、合戦では度々武功を立てていました。姉川の戦いにより横山城を奪われたことにより小谷城と佐和山城は分断されており、員昌は苦しい立場に置かれていました。結果、員昌は信長に降り、長政は南近江と北近江の境の足場を完全に失うことになります。

 

そして9月にはあの有名な比叡山焼き討ちで信長包囲網の一翼であった延暦寺の僧兵が根絶やしにされてしまいます。

 

この時期には信長と義昭の関係はすでに修復不可能な状況になりつつあったようで、義昭は各地の大名などに御内書を送り反信長勢力を結集させようとの動きを示しています。第二次信長包囲網が生まれつつあったのです。この包囲網はこの年から武田信玄が没する天正元年(1573年)まで続きますが、義昭を中心としてまとまった勢力であったとは言えず、むしろ本願寺顕如による画策であったと指摘する説もあり、背景は複雑であったと言えます。

 

第二次信長包囲網の主な勢力は以下の通りです。

1.摂津の石山本願寺を本拠とする一向宗門徒、伊勢長島、朝倉氏滅亡後の越前

2.摂津の荒木村重、池田知正

3.近江、越前の浅井長政、朝倉義景

4.摂津の三好三人衆

5.甲斐の武田信玄

6.将軍足利義昭

7.河内、大和の松永久秀、筒井順慶ら

8.南近江の六角義賢、甲賀衆、伊賀衆

 

いずれにせよ長政はこの包囲網の一角で信長に対抗し続けます。しかしながら、朝倉氏に果断に事は運ぶ力強さがなかったことが致命的でした。長政は義理の兄信長を裏切ってまで朝倉氏と運命を共にしようとしたものの、選ぶ相手を間違ったとしか言えないような苦しみを味わいます。

 

一方信長は包囲網の各勢力と絶え間なく戦闘を繰り返しながら各個撃破していきます。この間の機敏な各地への転戦は佐和山城を手中に収めたことで岐阜と京の交通路の安全が確保できたことが大きいと思われます。

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