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この記事の目次
主君の土岐頼芸を追放する道三
マムシの真骨頂です。
跡取りのいなかった斉藤家を継がせてもらうことで、既に美濃の政治の実権を握っていた道三。しかし、次第に頼芸の存在が徐々に目障りになってきます。そして、遂に兵を向け、追放してしまいます。
ここに、名実ともに美濃国主となります。衰退していた室町幕府はこれを追認。
「山城守」に任ぜられます。
ここに、道三の美濃平定は成し遂げられたとみなされています。主家(主君)の座を次々と奪って、自らの地位を高めていったことから、戦国時代の下克上の典型ともいわれています。
織田信秀(信長の父)がライバル
道三は、信長の父である織田信秀と何度も争ったことが知られています。
美濃(現在の岐阜県あたり)の南部は、現在の濃尾平野で尾張(織田家の領土)と接していました。このあたりは、米の生産量がとても高かったのです。なので、ちょっとでも自分たちの領土に組み込みたいと、国境線を挟んで常に争っていました。フランスとドイツが長年争ったアルザス・ロレーヌ地方のようですね。信秀とは何度も戦い、勝ったこともあります。
ただ、信秀が頼芸を保護したことを口実に、美濃の北側の朝倉家に身を寄せていた頼純(頼芸の甥で対立していた)と連携して、北と南から攻めてきたのにはかなり参ったようです。この後、娘の帰蝶を信長と結婚させることで和睦することにします。
信長との邂逅
娘の帰蝶は、朝倉家に身を寄せていた頼純の妻でしたが、急死したため斉藤家に戻ってきていました。
『麒麟がくる』では、毒殺された頼芸の弟の妻ということになっていましたね。いずれにしても、帰蝶は斉藤家に出戻り、信長の妻となることになりました。織田家では、美濃からきた姫ということで「濃姫」と呼ばれていたということです。
帰蝶の婿となった信長と道三との会談は有名ですので、ここでは省かせていただきます。ただ、道三が信長を評価してたのは事実のようです。
信長に美濃を任せるという遺言をした?
道三は、家督を譲った義龍と対立して最後には戦をしかけます。その際に、信長に対して「美濃を譲る」という書状を送っていたのが残されています。それほどまでに、義龍よりも信長を評価したのは一体なぜだったのでしょうか。
信長はニュータイプだった
信長は、道三がそれまで会ったことのない人物であったのでしょう。道三のように、陰謀などで自分よりも上の立場の人間を陥れていくのとは違い、信長はその後真正面から戦をして領土を拡大していきます。
天下布武というスローガン通り、軍事力を誰よりも重んじていました。それまで、戦になると、農民が兵隊としてかりだされていました。ですが、信長は農家の次男や三男などを雇い、職業軍人にして戦のプロ、精鋭部隊を作っていきます。そういった考え方の根本的な違いが、道三には新鮮に思えたのかもしれません。
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