孫策の妻と言えば大喬、周瑜の妻である小喬の姉で、性格は妹とは少し違い淑やかで……というのはあくまで近年の大喬のイメージ。実は大喬は孫策の妻と言える女性の中で唯一名前が分かっているにもかかわらず、その人となりははっきりとしていません。
今回はそんな大喬について、色々とお話してみたいと思います。
この記事の目次
三国志演義での大喬
まずは三国志演義での大喬について。
三国志演義で大喬が出てくるのは曹操が攻めてきた……つまり赤壁の戦いの時のこと。諸葛亮が周瑜に曹操との開戦を決意させるために「曹操は二喬を手に入れようと考えていますよ」と言ったことで周瑜が怒り、開戦を決定づけさせました。
有名な銅雀台の一説ですね。この二喬というのがその時は既に亡くなっていた孫策の妻である大喬と、その妹で周瑜の妻であった小喬のことです。
「美人」という強調のみ
因みに三国志演義での大喬の出番はこれだけです。妻となった経緯は語られておらず、本人自身が出てきているとも言い難い記述のみ。ただし評判の美人であることはこれでもかと印象付けられているのが面白いところ。
そう、つまり大喬という存在は、三国志演義に至っても「良く分からない」存在であると言って良いでしょう。
正史の大喬は……?
ではここで正史三国志に移りましょう。正史では大喬の名前は「大橋」とされています。良くある「大喬」の名前は毛宗崗本など一部の版本で改められた名前なのです。ここで大橋は橋公の娘で孫策の妻としか記述されていません。
とにかく記述が少ない!
そんな大橋……分かりやすく大喬としますが、一応孫策の妻とされた経緯が書かれています。しかしそれも「199年12月に妹と共に皖城を占領した孫策軍の捕虜となり、孫策の妻妾の一人に加えられた」というだけのもの。
裴注の「江表伝」には、孫策が周瑜に「橋公のふたりの娘は故郷を失うことになったが、我々を婿にすることができたのだから満足だろう」と言ったといいます。
しかしここで注目して欲しいのは、愛妾ということ。そう、大喬と小喬はあくまで愛妾であり、孫策と周瑜の妻の一人でしかないのです。
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