豊臣秀吉と明智光秀の関係を検証します。どちらも織田信長の家臣として、他の家臣よりも活躍し、目覚ましく出世街道を突き進んだふたり。
しかし本能寺の変から明暗が分かれ、謀反人として歴史から葬り去られた光秀と、天下人としてその名が知られる秀吉という評価になっています。そのあたりの実際について、じっくり確認して行きます。
この記事の目次
秀吉が信長の家臣になるまで
秀吉が信長の家臣になるまでを確認します。秀吉は下層民の子として生まれたために明確な記録はありません。義父(実父という説も)であった竹阿弥の虐待に耐えられず家を出た秀吉は、遠江国にあった引馬城支城の頭陀寺城主・松下之綱に仕えたとあります。この人物は今川家の家臣・飯尾氏の家臣という家柄。そこで秀吉は目を掛けられてそれなりの働きをしましたが、あまり詳しい情報は残っていません。そして之綱の元を離れ、新たな士官先を探します。
そして木下藤吉郎と名乗り、1554(天文23)年頃に信長の家臣になっています。最初は雑用役の小者として使えます。やがて秀吉が率先してあらゆる雑用をこなしたことで、信長から高い評価を受けます。やがて足軽となり織田軍に従軍しながら、美濃の斉藤家の家臣の誘降工作を成功させるなど、確実に成果を収めます。
1565(永禄8)年には「木下藤吉郎秀吉」の署名のある安堵状が発見されており、この頃には秀吉が武将として認められていることがうかがえます。そして歴史的に有名なのが墨俣一夜城建設。これについては諸説あり、信ぴょう性に乏しいとも言われていますが、この頃から蜂須賀正勝など秀吉に仕えるものの、名前が登場しています。そして信長が上洛した際には従軍し、光秀らと京都の政務を任されています。
光秀が信長の家臣になるまで
明智光秀は、清和源氏と土岐氏の流れを汲む明智氏の家に生まれました。父は幼少のころに無くなり、叔父が城主となっていたとありますが、はっきりしたことはわかっていません。
光秀の住んでいた明智城は。美濃斉藤家の親子での内紛による影響で、父・道三を倒した義龍に攻められてしまい、一族が離散しました。
一般的には越前の朝倉義景を頼っていますが、室町幕府の幕臣・細川藤孝に仕えていたという説や医者として生計を立てていたという説もあります。
やがて転機が訪れ、越前に来た足利義昭に仕えています。義景が上洛をする様子が無いのを見ると、義昭はそれを見限り、美濃を制圧したばかりの信長に接近します。そしてその斡旋に光秀が関わっていたとも言われます。やがて義昭は信長を頼って上洛。足利幕府15代将軍になります。
このときに光秀も秀吉らとともに京都の政務に当たりますが、この頃はまだ幕臣という立場でした。また信長とふたりの主君に仕えていたという説も。光秀が信長単独の家臣になったとされるのは、比叡山の焼き討ちの頃からとされます。
焼き討ちの後、近江の志賀郡5万石が信長より与えられ、坂本城を築城します。そして光秀は義昭を完全に見限り、最後は信長側の武将として義昭と戦い、室町幕府滅亡に一役買ったことになります。
秀吉と光秀の性格
豊臣秀吉の性格ですが、天下人になる前と後で大きく変わったと言われています。ここでは光秀との比較より、天下人になる前の秀吉の性格を見てきます。ひとつには「冷静な判断力」があります。信長という人物を見極め、信長に好印象を持ってもらえるよう、アピールできるかを常に考えていました。
そして謙虚さからのカリスマ性。これは人心掌握の術にたけており、敵対していた美濃勢の誘降工作からはじまり、天下統一までの間、あらゆる人物に対して行っています。そのほか先見性や創造性も高いと言われ、水攻めや兵糧攻めを得意としていました。
次に光秀の性格ですが、教養力の高さがあります。将軍家、公家、天皇家とも親交深かったとの記録が残ります。また手先が器用とも言われ、鉄砲打ちの名手とも。
また狡猾な性格で密会を好む陰湿な性格があると、宣教師ルイス・フロイスの日本記に記されています。
そのほか慈愛に満ちた性格があったとも言われ、領民には慕われている一方。比叡山や本願寺、丹波勢との戦いにおいては容赦なく、ある意味残虐な方法で相手を圧倒するしたたかさをも持ち合わせていました。そして士官をする前の頃の見聞の高さや人脈を持っていたとも言われています。
協力し合った京の政務と金ケ先の戦い
秀吉と光秀がはじめて一緒に仕事をしたのが、信長上洛後に行われた京都の政務です。上洛直後の信長はまだ尾張と美濃の2カ国を平定しただけの大名で、公家衆や近隣諸大名からは、義昭の供をしている将という印象しかありませんでした。そのため一旦信長が美濃に戻ると、撤退していた三好勢が再び四国から京を目指すような状況。
このときは信長が戻るまでもなく光秀らの奮戦で敗退させるなど、当時は幕臣としての立場の光秀も活躍しています。また秀吉も当時の明確な情報は残っていませんが、信長家臣のひとりとして京都での政務を行っていました。それと同時に但馬への出兵を言い渡されるなど、あわただしく動き回っています。
またこのふたりはある戦いにおいて同じ役目を担ったことがあります。それは金ヶ崎の戦い。信長の上洛命令を無視した朝倉義景への戦いの最中、同盟していた浅井長政(あさいながまさ)が裏切ったために、撤退をする必要に迫られました。そのときに殿(しんがり)を、このふたりが担当しています。
この役目は軍の最後に撤退し、追手からの攻撃を受けながら、信長らの本体を逃がす役目。命の保証もありません。そんな中、ふたりはうまく切り抜けて織田軍の撤退を成功させました。そしてもちろんふたりとも無事に生還しています。
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