こちらは2ページ目になります。1ページ目から読む場合は、以下の緑ボタンからお願いします。
この記事の目次
太原雪斎の功績
では、義元のブレーンになった太原雪斎の活躍はどんなものだったのでしょうか?
それは短期間の上にかなり数が多いので、箇条書きで整理してみると
①天文6年(1537年)今川氏親の代から険悪だった甲斐の武田信虎の関係修復に努め、義元の正室に信虎の長女定恵院を迎え、武田信虎の嫡子の晴信に三条公頼の娘三条の方を周旋し両家の間で甲駿同盟を成立させた。
②天文14年(1545年)武田と結んだ事で武田と仲が悪い北条氏綱と対立。駿河東部を奪われるが、慌てず根回しをし、関東管領上杉憲政・武田晴信と結び同地を奪い返した。
③天文15年(1546年)織田信秀が西三河に侵入して松平広忠が救援を求めてきたのを利用し、大軍を率いて西三河に介入。天文17年(1548年)三河小豆坂で織田信秀と戦って破り、さらに三河安祥城を攻めて、信秀の子、織田信広を捕縛する。
④天文18年(1549年)織田信秀と交渉を重ね織田信広を返す代わりに織田家に奪われた人質の松平竹千代を取り戻し西三河の支配権を得る。
⑤天文19年(1550年)義元の正室定恵院が死去し武田との姻戚関係が絶えた為、義元の長女嶺松院を晴信の嫡子義信の正室として嫁がせ同盟を維持。
⑥天文22年(1553年)今川仮名目録33条の追加21カ条の制定に寄与。
⑦天文23年(1554年)武田晴信、北条氏康に働きかけ甲相駿三国同盟を締結。義元の嫡子氏真に氏康の娘、早川殿を嫁がせ後顧の憂いを除き尾張侵攻への道を開く
このように雪斎は外交では、武田、北条を上手く同盟に引き込み、敵対する織田信秀は撃退して、奪われた松平竹千代を人質交換で奪い返し、西三河の支配権を確立し、尾張侵攻へのお膳立てを整えるなど、八面六臂の活躍をしています。
尾張侵攻を前に病没
しかし、弘治元年(1555年)閏10月10日、尾張攻めを目前にして雪斎は駿河長慶寺にて死去します。享年60歳。雪斎の抜けた穴は大きく、もし雪斎の寿命が後5年あれば、義元は桶狭間で無残な最期を迎えなかっただろうとも言われています。
今川義元は決して、凡庸な人物ではないので、それは雪斎を持ち上げすぎだろうとも思いますが、甲陽軍鑑によると山本勘助は、「今川家は悉く坊主なくてはならぬ家」と評したとされ、徳川家康も「義元は雪斎和尚のみと議論して国政を執ったので、家老の権威は軽く雪斎亡き後、国は乱れた」と回想しているので、案外大袈裟でもないかも知れません。
いかに有能な義元でも、自分だけで全てを動かす事は出来ないですから、幼少期から関係を築いてきた雪斎を頼みにし、雪斎以外のブレーンの育成を怠ったのが、或いは桶狭間の敗因なのかも知れませんね。
太原雪斎の経歴・年表
・明応5年(1496年)駿河庵原で庵原政盛の嫡男として誕生。
・永正6年(1509年)14歳で剃髪し善得院に入る。
・大永3年(1523年)4歳で出家した芳菊丸(後の今川義元)と出会う
・大永6年(1526年)今川氏親死去、義元、雪斎駿河に戻る
・天文5年(1536年)義元の兄、今川氏輝死去、雪斎、義元を推して花倉の乱を戦い勝利
・天文6年(1537年)甲斐の武田信虎と縁組をまとめ甲駿同盟を結ぶ
・天文14年(1545年)上杉憲政、武田晴信と結び北条氏綱を破り奪われた駿河東部を奪還
・天文15年(1546年)松平広忠の救援要請を受け入れ、西三河に介入、織田信秀と戦う
・天文18年(1549年)小豆坂の戦いを制して織田信秀を下し、松平竹千代を取り戻して西三河の支配権を得る
・天文23年(1554年)甲相駿三国同盟を締結
・弘治元年(1555年)駿河長慶寺にて60歳で病没
戦国時代ライターkawausoの独り言
太原雪斎は、家柄にこだわらずに有能な人を登用するように義元に言っていたそうで、当時としては合理主義的な人物だったようです。戦場では、坊主頭に鉢巻きで指揮をしたとも言われ、およそ坊主とは思えない率先垂範の人物でした。でも、それだけに何でも自分がやるという癖がつき、義元唯一の相談相手として自分を規定してしまい、自分の死後、残される義元の事まで考えてやれなかったのが、雪斎の生涯唯一の不覚だったかも知れませんね。
参考:Wikipedia
関連記事:戦国最強の同盟を成立させた名軍師・太原雪斎(たいげんせっさい)の活躍
関連記事:仏門教師・太原雪斎とはどんな人?今川義元の幼少期・青年期を支えた坊主軍師