太原雪斎とはどんな人?パワフル坊主は仏に頼るより自ら動く!

2020年8月21日


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太原雪斎とはどんな人?(1P目)

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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太原雪斎の功績

スキッパーキ(はてな)

 

では、義元のブレーンになった太原雪斎の活躍はどんなものだったのでしょうか?

それは短期間の上にかなり数が多いので、箇条書きで整理してみると

 

①天文6年(1537年)今川氏親の代から険悪だった甲斐の武田信虎(たけだのぶとら)の関係修復に努め、義元の正室に信虎の長女定恵院(ていけいいん)を迎え、武田信虎の嫡子の晴信(はるのぶ)三条公頼(さんじょうきんより)の娘三条の方を周旋(しゅうせんし)し両家の間で甲駿(こうしゅん)同盟を成立させた。

 

②天文14年(1545年)武田と結んだ事で武田と仲が悪い北条氏綱(ほうじょううじつな)と対立。駿河東部を奪われるが、慌てず根回しをし、関東管領(かんとうかんれい)上杉憲政(うえすぎのりまさ)・武田晴信と結び同地を奪い返した。

 

戦国時代の合戦シーン(兵士モブ用)

 

③天文15年(1546年)織田信秀が西三河に侵入して松平広忠が救援を求めてきたのを利用し、大軍を率いて西三河に介入。天文17年(1548年)三河小豆坂(みかわあずきざか)で織田信秀と戦って破り、さらに三河安祥城(みかわあんじょうじょう)を攻めて、信秀の子、織田信広を捕縛する。

 

若い頃の徳川家康(松平元康)

 

④天文18年(1549年)織田信秀と交渉を重ね織田信広を返す代わりに織田家に奪われた人質の松平竹千代を取り戻し西三河の支配権を得る。

 

⑤天文19年(1550年)義元の正室定恵院が死去し武田との姻戚関係が絶えた為、義元の長女嶺松院を晴信の嫡子義信の正室として嫁がせ同盟を維持。

真田丸 武田信玄

 

⑥天文22年(1553年)今川仮名目録33条の追加21カ条の制定に寄与。

 

⑦天文23年(1554年)武田晴信、北条氏康に働きかけ甲相駿三国同盟を締結。義元の嫡子氏真に氏康の娘、早川殿を嫁がせ後顧の憂いを除き尾張侵攻への道を開く

 

このように雪斎は外交では、武田、北条を上手く同盟に引き込み、敵対する織田信秀は撃退して、奪われた松平竹千代を人質交換で奪い返し、西三河の支配権を確立し、尾張侵攻へのお膳立てを整えるなど、八面六臂(はちめんろっぴ)の活躍をしています。

 



尾張侵攻を前に病没

若き頃の織田信長に敗れる今川義元

 

しかし、弘治元年(1555年)閏10月10日、尾張攻めを目前にして雪斎は駿河長慶寺(するがちょうけいじ)にて死去します。享年60歳。雪斎の抜けた穴は大きく、もし雪斎の寿命が後5年あれば、義元は桶狭間(おけはざま)で無残な最期を迎えなかっただろうとも言われています。

 

武田信玄が作った甲陽軍鑑

 

今川義元は決して、凡庸(ぼんよう)な人物ではないので、それは雪斎を持ち上げすぎだろうとも思いますが、甲陽軍鑑(こうようぐんかん)によると山本勘助は、「今川家は(ことごと)く坊主なくてはならぬ家」と評したとされ、徳川家康も「義元は雪斎和尚のみと議論して国政を執ったので、家老の権威は軽く雪斎亡き後、国は乱れた」と回想しているので、案外大袈裟でもないかも知れません。

 

いかに有能な義元でも、自分だけで全てを動かす事は出来ないですから、幼少期から関係を築いてきた雪斎を頼みにし、雪斎以外のブレーンの育成を怠ったのが、或いは桶狭間の敗因なのかも知れませんね。

 

太原雪斎の経歴・年表

戦国時代の武家屋敷b

 

明応(めいおう)5年(1496年)駿河庵原で庵原政盛の嫡男として誕生。

・永正6年(1509年)14歳で剃髪し善得院に入る。

・大永3年(1523年)4歳で出家した芳菊丸(後の今川義元)と出会う

・大永6年(1526年)今川氏親死去、義元、雪斎駿河に戻る

・天文5年(1536年)義元の兄、今川氏輝死去、雪斎、義元を推して花倉の乱を戦い勝利

・天文6年(1537年)甲斐の武田信虎と縁組をまとめ甲駿同盟を結ぶ

・天文14年(1545年)上杉憲政、武田晴信と結び北条氏綱を破り奪われた駿河東部を奪還

・天文15年(1546年)松平広忠の救援要請を受け入れ、西三河に介入、織田信秀と戦う

・天文18年(1549年)小豆坂の戦いを制して織田信秀を下し、松平竹千代を取り戻して西三河の支配権を得る

・天文23年(1554年)甲相駿三国同盟を締結

・弘治元年(1555年)駿河長慶寺にて60歳で病没

 

戦国時代ライターkawausoの独り言

kawauso 三国志

 

太原雪斎は、家柄にこだわらずに有能な人を登用(とうよう)するように義元に言っていたそうで、当時としては合理主義的な人物だったようです。戦場では、坊主頭に鉢巻きで指揮をしたとも言われ、およそ坊主とは思えない率先垂範の人物でした。でも、それだけに何でも自分がやるという癖がつき、義元唯一の相談相手として自分を規定してしまい、自分の死後、残される義元の事まで考えてやれなかったのが、雪斎の生涯唯一の不覚だったかも知れませんね。

 

参考:Wikipedia

 

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麒麟がきた

 

 

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kawauso

台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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