信長公記は戦国大名、織田信長の一代記です。書いたのは実際に織田信長に仕えた太田牛一で、同時代人に書かれた織田信長の記録としては一級の価値があります。
信長公記と書いて「しんちょうこうき」と読みますが、これは、米沢藩上杉氏旧蔵本である個人蔵十冊本の内題が「しんちやうき」とされているので「しんちょうこうき」と読んでいるだけで、のぶながこうきと読んでも間違いではありません。
※kawa註:信長公記について、有職読みで偉人の名前は音読みにすべきという俗説がありますが、率直に言うと誤りです。有職読みとは、本来、律令に基づく官職に対して行われた読みで、例えば、太政官は本来なら「オホヒマツリコトノツカサ」と訓読みで読むべきですが、長いので音読みで「ダジョウカン」と読んでも差し支え無しとされたもので人名には使いません。
【外部リンク】伊藤博文をハクブンと呼ぶは「有職読み」にあらず(漢字文化研究)
この記事の目次
信長の生い立ちと上洛から本能寺までを記録
信長公記は、信長が足利義昭を擁して上洛した永禄11年(1568年)から本能寺の変で死んだ天正10年(1582年)まで15年を記録しています。一年一冊の構成で15冊、それに加えて信長が誕生してから美濃を攻略して足利義昭を迎えるまでを首巻として一冊加え16冊です。
上洛から本能寺までは、まさに織田信長が尾張の一大名から天下人へと飛翔していき無念の最期を迎えるまでの激動の時期であり織田信長を知る上で信長公記は欠かす事が出来ない史料と言えるでしょう。
日記ではなくメモ類をまとめてリライト
信長公記は、日記をそのまま史料としたものではなく、牛一が過去に書いた安土日記などを元に晩年にリライトしたものです。
その証拠として、同じ本の中でも信長に対する呼称が、上様、信長様、信長と表現が変化したり、徳川家康に関しても家康と呼び捨てにしたり、家康公、家康卿、家康殿と呼び名が変化しているので、様々な時期に書いたメモを切り貼りして一冊にまとめたと考えられています。
日時、天候、場所、登場人物を克明に記録
太田牛一の信長公記が後世に高く評価されているのは、記録の正確性です。
どうも、牛一は、自分が将来の天下人の記録を書いているという確信があったようで、特に天正3年(1575年)以後の記述では、特に詳細に、日時や天候、場所、出来事に参加した人物名などを克明に記しています。
お陰で、信長公記は、同時代の日時や登場人物が分からない史料と突き合わせる事で、史料の正確性を補完するのに使われている程です。太田牛一は、歴史の記録官として、大変優秀な人物だと言えるでしょう。
太田牛一の履歴
太田牛一は大永7年(1527年)尾張国春日井郡山田荘安食村の土豪の家に生まれ、成願寺で僧侶になります。しかし、還俗して最初は斯波義統の家臣になり、斯波義統が織田彦五郎に殺されると、逃げのびた義統の息子の斯波義銀と共に那古野城の織田信長に救援を求めます。
その後、天文23年(1554年)信長の家臣の柴田勝家に仕えて足軽になり安食の戦いに参加します。その時に弓の腕を認められ、信長の直臣に取り立てを受けて弓3人槍3人の「六人衆」の一員として近侍衆となります。
信長の美濃攻略戦の堂洞城の戦いでは、二の丸門近くの建物の高い屋根から弓を射て活躍、以後は、弓働きから近習の書記になり、後には安土城に屋敷をもって官僚として仕えます。
永禄12年(1569年)から天正10年(1582年)にかけては丹羽長秀の与力として京都の寺社との間の行政を担当。
本能寺の変後は、丹羽長秀に2000石で仕え、柴田勝家との戦いの為に坂本城に参陣、長秀没後は息子の丹羽長重に仕えます。一度は隠居しますが、今度は豊臣秀吉に召し出され、天正17年(1587年)から洛南の行政官僚として寺社の行政や検地を担当。
天正20年(1590年)秀吉について肥前国名護屋へ従軍して、道中の人足や馬を配分する奉行などを務め、秀吉没後は豊臣秀頼に仕えました。
関ケ原の合戦後に徳川家康が台頭すると、「関ケ原合戦双紙」を家康に献上したりしていますが、さらに徳川家に鞍替えする事はなく大坂の陣の直前、慶長18年(1613年)に86歳で亡くなっています。
こうしてみると、太田牛一は弓の名手であるだけでなく行政官僚としても優秀で、一度隠居したのを召し出される程に頼りにされた人物である事が分かります。
本能寺の変を迫真の筆で再現
信長公記の出色はやはり最後の本能寺の変でしょう。実際には牛一は丹羽長秀に仕えて近江にいたので、本能寺の変を直接見たわけではありませんが、生き延びた信長の侍女に取材して迫真の筆で変を再現しています。
例えば、信長が光秀の謀反を全く考えてなく、本能寺の外が騒がしくなったのを表の兵士が小競り合いをしているのだと思い込んでいた話や、鉄砲が撃ち込まれる段になって信長が、異変に気付き、小姓に明智光秀が叛いたと聞かされ、「是非に及ばず」とつぶやいた等は、映画やテレビドラマで何度も上映されますが、その逸話の元ネタは信長公記です。
ここでの牛一は、優秀なレポーターと言う事が出来るでしょう。
あまり感情を入れないフラットな記述
太田牛一の優れた点は、比叡山焼き討ちのような大袈裟な残酷描写のオンパレードになるようなところでも、淡々とした筆で、信長を悪魔のように書かず、比叡山を100%の被害者として美化する事なく、そこで起きた凄惨な事をそのまま書いている点です。
当時は今より、天罰とか仏罰が信じられた時代なので、信長が恐れ憚る所もなく坊主を殺したり寺社を焼き払うのを批判した文書が多いのですが、それに比較しても信長公記は、信長も比叡山も、かなりフラットに書いています。
長島一向一揆についても、中江、屋長島の砦に2万人の男女の門徒が籠っているのを、信長が柵で取り巻き四方から火を放って、ことごとく焼き殺した等、残酷無比な事を淡々と記録しています。
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