
金ヶ崎の退き口は、越前朝倉氏の支城、敦賀の金ヶ崎城を攻略した直後の織田軍に、背後の小谷城から信長の妹婿、浅井長政が攻め掛かり、朝倉本軍との挟撃を恐れた信長が撤退した戦いです。
しかし、この戦い、当初信長は朝倉氏を攻めるとして出陣したのではありませんでした。実は、信長は若狭の武藤を討伐するとして出陣して朝倉を欺いたのです。
この武藤氏のボスこそ、戦国のミスター傀儡、武田元明でした。
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弱い方の武田、若狭武田氏の没落
信長が当初攻めると言っていた若狭の武藤とは、若狭国の守護職武田元明の家来でした。
若狭武田氏は甲斐や安芸の武田氏と系統を同じくする名門で、安芸武田氏4代武田信繁の嫡男の武田信栄が、室町幕府の恐怖の大王、足利義教の命を受けて1440年(永享12年)に一色義貫を誅殺した功績により若狭守護になった時に始まります。
信栄の弟、武田信賢の時代には、一色氏残党や一揆を鎮圧して領国をまとめる一方で、応仁の乱では東軍に属して丹後国に侵攻するなど活躍しました。
しかし、戦国時代の中期に入り、6代目当主の武田元光が、将軍足利義晴を奉じた細川高国に与して、細川晴元方の三好氏と波多野氏に桂川原の合戦で敗北すると勢いに陰りがでます。
無理な出兵が祟り、弱体化した若狭武田氏は、周辺諸国からの圧力、有力国人の離反が頻発し、8代目武田義統の時代には家督争いが加わり弱体化に拍車がかかります。
それでも、義統は、一時は足利義昭を庇護するなど名門の意地を見せますが、家督争いで紛争を繰り返す武田氏に義昭を上洛させる力などなく、義昭は愛想を尽かして一乗谷の越前朝倉氏を頼って出てきます。
若狭武田氏も、9代目武田元明の時代、永禄11年(1568年)越前朝倉氏の若狭侵攻で領地を奪われ、武田元明は朝倉景恒に捕まり庇護という名目で一乗谷で軟禁されました。つまり、武田元明は、弱い事で有名な朝倉義景に征服され傀儡にされた、弱い方の武田だったのです。
若狭の国人、逸見、栗屋、熊谷氏が織田家に内通
こうして、越前朝倉氏の間接統治を受ける事になった若狭武田氏ですが、国人の中には、面従腹背で武田氏再興を目指すものもいました。
なかでも、逸見昌経、栗屋勝久、熊谷直澄は信長が上洛すると逸早く信長に呼応、粟屋と熊谷は武田四老と呼ばれた若狭武田氏の重臣で、粟屋勝久は越前との国境にある国吉城の城主であり、永禄6年(1563年)から永禄12年(1569年)まで、毎年のように攻め寄せてくる朝倉軍を退けた猛将でした。
逆に、武田四老の1人である武藤友益は、一乗谷の武田元明に忠義を誓っていた為に、武田信方と共に織田家と戦う事になります。信長は、武藤友益が足利将軍を奉じた自分の命令に従わない事を口実に徳川家康の軍勢と連合で若狭に攻め込んだのです。
信長は、越前朝倉氏の併合に不満を持つ、越前国人の勢力を活用して若狭を制圧。武田四老、粟屋勝久の居城国吉城を寝所にして、元亀元年(1570年)4月25日に朝倉義景領に攻撃を仕掛けます。
金ヶ崎城を落とすが浅井長政の裏切りに遭い退却
織田・徳川連合軍は、同日に天筒山城を皮切りに敦賀郡の朝倉氏側の城に攻撃を仕掛け、翌日には金ケ崎城主の朝倉景恒を下します。これに対し、一乗谷の朝倉本隊は、敦賀郡を見捨てるかのように戦線が狭く防御に向いた地形である木の芽峠一帯を強化して防戦頽勢を整えました。
まるで、朝倉景恒を見殺すような態度ですが、これには本家である朝倉義景と一門衆、朝倉景鏡、朝倉景健の序列争いが水面下にはあり、故意に金ケ崎城への援軍を遅らせた説もあるようです。
朝倉景恒は、圧倒的な兵力差を理由に城を開きましたが、戦後朝倉一門衆は、これを不甲斐なしと非難、失意の景恒は永平寺に遁世してその年のうちに死去しました。
もし序列問題が金ヶ崎城の落城の背景にあるなら後の朝倉氏の不甲斐無さの一端は、もう金ヶ崎の戦いで露呈していると言えますね。しかし、優勢に越前攻めを続けていた織田信長に信じられない報告が入ってきます。信長の義弟の北近江の浅井長政が裏切り、朝倉方について織田軍の背後を衝こうとしているというのです。
当初こそ「虚説たるべき!」と信じなかった信長ですが、次々に入る浅井氏裏切りの報告に認めざるを得なくなりました。
この時、どうして浅井長政の裏切りを信長が知ったのかについては、長政の妻である信長の妹お市が、有名な袋の両端を縛った小豆を送って知らせたという説と、信長についていた戦国のボンバーマン、松永久秀が情報収集により浅井氏の不審な行動に気づいたとも言われますが、どちらも信憑性に疑問があるようです。
金ケ崎の退き口でボンバーマン活躍?
浅井長政は、小谷城から北国街道を北上するラインと木戸城から高島城を経て北上し海津から七里半越をする2つのルートで織田軍の背後を襲います。
織田信長は殿として池田勝正の3000人を主力に、木下秀吉、明智光秀を金ケ崎城に残して退却を開始しました。この後、織田信長は供回りだけを引き連れて退却していきますが、残された織田軍の諸将は統制が取れ、朝倉軍に付け入る隙を与えず被害を最小限度に食い止めつつ撤退します。
信長の供には松永久秀もいて、浅井兵がウヨウヨしている湖西ではなく、朽木越え(鯖街道)という山道を通過して京に帰還しようとします。しかし、この辺りは朽木元綱という国衆の領地であり、朽木氏の手助けを得ないと通れませんでした。
この交渉の大役を信長から仰せつかったのが松永久秀で、本当は信長を殺して浅井氏に首を送るつもりだった朽木元綱を説得して利害を説き、信長に協力させる事に成功します。
まさに松永久秀グッジョブ!彼は一面では信長の命の恩人という事になりますね。だから、裏切りも3回まで許されたんでしょうか?
こうして、信長は命からがら京まで逃げ戻りますが、その時に付き従っていたのは、十数騎に過ぎなかったそうです。
悲劇!いつのまにか守護でなくなった武田元明
さて、一乗谷に軟禁され傀儡扱いの武田元明に話を移します。金ヶ崎の戦いの時、若狭国衆の越前朝倉氏への反感を利用して、若狭を落とした信長ですが、暫定的に丹羽長秀を若狭半国守護に任じています。
これをカウントに入れると、織田家で一番最初に国持ち大名になったのは丹羽長秀という事になります。若狭半国に留めているという事は、信長は残りの半分は武田元明の所領と認めていたようですが、武田元明は一乗谷から出る事なくそのままでした。
この消極的な態度がどうやら信長の勘気に触れたようです。
(若狭はてめえの国だろうが!どうしていつまでも朝倉の庇護を受けたままで、我等に敵対しておる!なめとんのか!あぁん?)てな事でしょう、多分
天正元年(1573年)8月に朝倉氏が滅亡すると、武田元明は粟屋勝久に救われますが、その頃には若狭一国は丹羽長秀に与えられ、元の若狭衆、逸見昌経、内藤越前守、香川右衛門大夫、熊谷直澄、山県下野守、白井光胤、粟屋勝久、松宮玄蕃、寺井源左衛門、武藤友益は、長秀の与力になっていました。
知らない間に、武田元明は若狭守護の地位を失っていたのでした。
失意の元明は元は自分の居城だった、長秀がいる後瀬山城を避け、同じ遠敷郡小浜にある若狭神宮寺桜本坊に入り、一乗谷合戦の一番槍だった粟屋勝久と共に何度も赦免を求めますが、信長は無視し続けました。可哀想ですけど、自分の領地が掛かっている戦いの最中に、ずっと敵方の館にいたんですから、ま、仕方ないっちゃあ仕方ないですよね?
本能寺の変にラストチャンスを賭けるも空しく滅亡
しかし、天正9年(1581年)大飯郡高浜城8000石の領主である逸見昌経が死去すると、信長はこれを後継ぎなしとして所領を没収。その一部、佐分利の石山城3000石を元明に与え、元明は若狭衆の1人として長秀の与力になります。
でも、元は若狭守護だったわけですから若い元明に無念は募ります。そんな時、元明に天のチャンスが飛び込んできました。天正10年、6月2日、京都本能寺で織田信長が明智光秀に討たれ、天下はガラガラポンになったのです。
「チャンス!今こそ、わしが若狭守護に戻れる好機じゃ!」
武田元明は、信長を討った明智光秀に味方し、若狭衆の武藤友益と共に近江佐和山城に恨み重なる丹羽長秀を攻めて城を陥落させます。ところが、明智光秀が毛利輝元と和睦して急遽戻った羽柴秀吉と戦い、山崎の戦いで敗走すると、武田元明の命運も尽きました。
武田元明は、羽柴秀吉に恭順の意を示しますが、長秀のいる近江海津に招かれ海津の宝幢院で謀殺されました。または自害したとも伝わります。享年は21あるいは23、または31歳。
戦国時代ライターkawausoの独り言
元明には、永禄5年(1562年)誕生説と天文21年(1552年)誕生説があるそうです。もし、永禄5年なら金ヶ崎の戦いの時には、僅か8歳で朝倉氏が滅亡した時でも11歳にしかなっていません。
これで戦意がないとして若狭守護の地位を取り上げられたとしたら、流石に可哀想です。
しかし、天文11年なら金ヶ崎の戦いの時点で18歳、朝倉氏滅亡時には21歳ですから、さすがに傍観してました!は通らない年齢だと言えそうです。本当はどっちだったんでしょうかね?
参考:Wikipedia
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