儒教の全盛期だった後漢では、裏はともかく表向きは賄賂(わいろ)なんてとんでもないという顔をしないといけなかった。
しかし、そんな中でも一見、賄賂に見せずに上役に名前を売る方法があったのだ。
正史三国志張既(ちょうき)伝が引く魏略にこうある。
張既は貧しい家に生まれたが、(以下略)若くして文章に巧みで、郡の小間使いとなりそのため家は富んだ。
貧家である事を弁えて栄達を願わず、かくして常によき刀筆(とうひつ)および木簡(もくかん)を買い込んでおき、
上役のご機嫌伺いをし、刀筆や木簡が不足していれば、その都度プレゼントし次第に知られるようになった。
刀筆は今で言えば万年筆で、木簡はノートだと考えたらいい、しかし、現在の考えでは、どうして万年筆やノートを贈られて上役が喜ぶか不思議だろう?
実は、後漢の時代には経費という概念がなく、事務経費は各人が分担して自腹で出していた。
だけど役所などになると、木簡や刀筆の経費が膨大になり、ただでさえ少ない役人の給与を圧迫していた。
張既はそれを承知していて、代筆をして稼いだ金を溜めて刀筆と木簡を買い込み、上役に配って機嫌を取ったんだ。
この張既こそ、袁尚に寝返った馬騰を再度曹操に付かせた口の上手い男であり、馬騰を関中から引き離して一族もろとも鄴に移住させるなど曹操の関中支配をアシストし、涼州運営にはなくてはならない男だった。
田舎の上役の機嫌を取るくらいは朝飯前だっただろう。
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