麒麟がくるは、映像的な支障がない限りは、時代考証をしっかりしている時代劇です。
しかし最近、明智十兵衛が寺子屋の先生をしているシーンがあり、kawausoは違和感を持ちました。寺子屋の普及は江戸時代だと教わってきたのですが、戦国時代から寺子屋があったのでしょうか?
今回は戦国時代に寺子屋があったのか?その点を呉座勇一著、日本中世への招待を参考に知られざる戦国時代の初等教育に迫ってみます。
この記事の目次
寺院を母体として寺子屋は存在した
結論から先に言うと、戦国時代には初等教育を担う寺子屋は存在していました。日本の教育機関は、当初僧侶を教える仏教寺院に始まりますが、やがて武士の子弟を教えるようになり、さらに商人のような庶民の子弟を教えるようになったようです。
庶民向けの寺院学校の初見は、永享2年(1430年)10月の奥書がある「出法師落書」と言う文書に丹波国の山村に住むある僧侶が、多くの少年に対して「童子教」や「和漢朗詠集」を教えたという記述があります。また16世紀の多聞院日記には、奈良興福寺の塔頭である深窓庵に商人の子供が入る事例が散見されるそうです。
どんな教科書が使用された?
戦国時代の寺子屋で使用されたテキストは「庭訓往来」というものでした。これは、手紙の往来形式で構成された往来物というジャンルで、衣食住、職業、領国経営、建築、司法、職分、仏教、武具、教養、療養等、広範な内容を含んでいます。
基本内容は、盗賊討伐への出陣や、武具乗馬の借用、出陣の命令系統と心得、武具、馬具の名称というような武士の子弟向けのものでした。
しかし、市町の経営や職業人の招致方法、商取引の施設や業種、諸国物産など、商人の仕事にかかわる内容も含まれていて、後から増えて来た商人の子弟用に増補した形跡が見られるそうです。
このように戦国時代に入ると、武士の子弟以外に商人の子を中心に庶民が学ぶ事で庶民の教養レベルも向上したと考えられます。
戦国時代庶民の教養レベル
では、具体的に戦国時代の庶民の教養はどの程度のものだったのでしょうか?
それが端的に分かるのが、永禄11年(1568年)2月に厳島神社で上演が確認できる狂言「二九十八」です。二九十八とは、女狂言という分類の現代でいう婚活の話を面白おかしくしたお話です。
物語は、最初に未婚の男が出てきて、京都清水寺の観世音菩薩に良い妻を授けて下さるようにと、夜通しお祈りを捧げる所から始まります。
男が朝方にウトウトしてまどろんでいると「西門の一の階に立ったを汝が妻と定めい」と観世音菩薩のお告げを受けました。喜んだ男が西門に向かうと本当に被衣を被った女が立っています。
ちなみに、被衣とは当時の女性が外出時に顔を隠す為に被った衣のようなもの、
牛若丸が頭から被っていたベールのようなものと言えば分かりやすいでしょうか?
男が恥ずかしい気持ちを押し切り「お妻さまですか?」と素っ頓狂に尋ねると女は
「夫(つま)もなき我が身ひとつの更衣に袖をかたしく独り寝ぞする」と和歌で返答しました。
男は、お告げで聞いた妻に間違いない!と有頂天になり
「迎えに行きたいが、あなたの家は何町の角から何軒目の家ですか?」と女に聞きます。
すると女は「我が宿は、春の日ならの町の内、風の当たらぬ里と尋ねよ」とまたナゾナゾを和歌で出します。男は、春の日の町だから春日町、内風の当たらない場所だから室内…つまり春日町の室町と言い当てます。
でも室町の角から何件目かが分からないので、再度女に尋ねると「二九!」とだけ言い残し女は消えてしまいました。
そこで男は二九は2×9=18だから、角から18番目と考え18番目の家に行くと思った通り女がいたので、喜んで女を我が家に連れ帰り、ドキドキしながら被衣を取ると、これがとんでもない醜女で男は逃げていくというオチです。
【次のページに続きます】