陳寿はやはり諸葛亮びいきだった!その証拠を発見


 

はじめての三国志コメント機能バナー115-11_bnr1枠なし

蜀志(蜀書)_書類

 

正史三国志を書いた陳寿(ちんじゅ)は蜀びいきであったと言われています。

 

晋蜀の産まれ 陳寿

 

それは元々、陳寿が滅ぼされた(しょく)の官僚であり、蜀にシンパシーを感じていたからとも言われます。しかし、一方で諸葛亮(しょかつりょう)については、父親が街亭の敗戦に連座して諸葛亮に処罰されたので嫌っていて、その評価も辛辣(しんらつ)とされています。

 

しかし最近、kawausoは正史三国志諸葛亮伝を読んでいて、陳寿は実は諸葛亮びいきなのではないか?という感想を持ちました。

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


【誤植・誤字脱字の報告】 バナー 誤字脱字 報告 330 x 100



【レポート・論文で引用する場合の留意事項】 はじめての三国志レポート引用について



超不自然 諸葛亮伝に7年のブランク

水滸伝って何? 書類や本

 

陳寿が本当は諸葛亮びいきではないか?

 

kawausoがその疑問を抱いたのは、独立した列伝である正史三国志諸葛亮伝に、奇妙な7年の空白が存在しているからです。口で言うより文章で書いた方が早いので、その7年のブランクを書き出してみます。

 

建安16年(西暦211年)益州牧の劉璋(りゅうしょう)法正(ほうせい)を派遣して劉備を迎え張魯(ちょうろ)を討伐を命じた。諸葛亮は関羽と荊州にいて留守を守った。劉備は葭萌(かぼう)より帰還して逆に劉璋を攻め、諸葛亮は張飛、趙雲らと軍勢を率いて長江を遡上。

 

各々分かれて郡県を平定劉備と共に成都を囲んだ。劉璋が降伏して成都は平定され、劉備は諸葛亮を軍師将軍とし左将軍府事(さしょうぐんふじ)に所属させた。劉備が外に出征する時、諸葛亮は常に成都を守り食料と兵を供給する任務についた。

 

 

張飛の虎髭

 

ここまでが、建安19年頃までの出来事ですが、諸葛亮伝はここから一気に7年飛んで、建安26年から再開します。

 

 建安26年(西暦221)群臣が劉備に皇帝即位を勧め、劉備は未だに許さなかった。

 

諸葛亮が説得するには「昔、呉漢(ごかん)耿弇(こうえん)らが初めて世祖(せいそ)(光武帝)に帝位へ就く事を勧めた時、世祖は辞退する事4度を数えました。耿純が進んで言うには

「天下の英雄は伏して仰ぎ、望むものを所有したいと願うものです。

もし群臣に従わねば、彼らは明公(めいこう)を見限り、別の主を探して出ていくでしょう」

世祖は耿純の言葉が深いなぁ、深イイ話だなと感じて即位を受け入れました。

 

 

舌戦で煽るのがうまい諸葛亮孔明

 

大体、こんな感じで劉備が成都を落とした辺りから、皇帝即位まで7年飛んでいます。その間の劉備の漢中王即位とか、樊城包囲戦とかすっ飛ばしているのです。

 



諸葛亮空白の7年は生臭い権力掌握の期間

孔明

 

どうして陳寿は諸葛亮の列伝から7年を削ってしまったのか?

 

この間、諸葛亮は冬眠でもしていたのか?いえ、もちろん違います。そこで、kawausoが正史三国志の他の部分を見てみると、この7年間はつまり、諸葛亮の権力掌握の7年だった疑惑が浮かんできたのです。

 

正史三国志_書類

 

三国志蜀志の10巻は、劉封(りゅうほう)  彭羕(ほうよう)  廖立(りょうりつ)  李厳 (りげん) 劉琰(りゅうたん)  魏延  楊儀(ようぎ)で、途中で処罰された人々の列伝ですが、この中の最初の2名は、まさに諸葛亮空白の7年の間に諸葛亮の讒言により失脚したり処刑された人々でした。では、ここからは諸葛亮に追いやられた劉封と彭羕を見てみましょう。

 

三顧の礼特集バナー

 

諸葛亮の讒言が決め手になり死んだ2名

劉封

 

まず劉封ですが、こちらは関羽が樊城(はんじょう)攻めで援軍を送るように伝令を出したのを、上庸も平定してばかりで安定していないとして断った為に劉備に疎まれ責められました。諸葛亮は劉封が勇猛果敢な人物であり、劉備の死後には制御できなくなると吹き込み処断する決心を促しています。

 

身長192センチもある彭羕

 

彭羕は劉備のお気に入りで成都を攻略した後は、治中従事(ちちゅうじゅうじ)に任命して傍に置いて重用しましたが、それまで人並み以下の地位だった彭羕は増長して尊大な振る舞いが多くなり、諸葛亮は表面上は尊重したものの、内心では嫌っていました。

 

そこで劉備に密かに讒言(ざんげん)するには

 

孔明

 

「彭羕は志が高いので、先々トラブルメーカーになりますよ」

 

これは、彭羕が劉備の地位に取って代わるつもりだと仄めかしているようにも取れ、劉備は諸葛亮を尊敬していたので、次第に彭羕を疎んじ、素行なども考えて江陽太守に左遷しました。

 

劉備に重く採用されなかった龐統

 

いきなり出世の梯子を外され、ヤケになった彭羕は、馬超に謀反をほのめかし、それを馬超が劉備にチクって獄に入れられ誅殺されます。諸葛亮の讒言2連発ですが、生々しい限りです。もし、この2つの逸話を諸葛亮伝に入れたら、諸葛亮の印象は随分変わるとkawausoは思うのですが、皆さんはどう思いますか?

【次のページに続きます】

 

次のページへ >

  • この記事を書いた人
  • 最新記事
kawauso

kawauso

台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

-三国志の雑学
-, ,