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この記事の目次
和歌の謎かけや九九を知っていた庶民
この狂言を見ると、当時の庶民に謎かけの和歌を解く教養や、掛け算九九を理解できる素養があった事が分かります。何故なら、九九や和歌が分からないと「二九十八」のオチが成立しないからです。
ちなみに掛け算九九は、すでに万葉集から用例が出てきて、平安時代には、口遊という豆知識本に九九が収録され貴族の必修でした。
しかし、当時は九×九=八十一、九×八=七十二と、逆に教えていたようです。これが、室町時代には、一×一=一、一×二=二と現在のような覚え方に変化していきました。これにより九九が覚えやすくなり、庶民層にも掛け算が普及したと考えられます。
寺子屋で何年勉強した?
戦国時代の寺子屋では、子供は何年学んだのでしょうか?
毛利元就の家臣だった玉木吉保(1552~1633)は自伝の身自鏡によると13歳から3年間、勝楽寺で学んだ事が記されています。それによると、玉木は入塾して最初の5日間で、いろは47文字を学び、続いて仮名で文章を書けるように勉強し、その後、漢字を覚えていきました。
最初の1年目は習字を中心に習い、2年目には読書に比重を置き、「論語」や「四書五経」の漢籍を学び、兵書の「六韜」や「三略」、式條(御成敗式目)3年目には「古今和歌集」、「万葉集」、「伊勢物語」、「源氏物語」のような長い和文学を学んでいます。
玉木吉保は武士の子ですが、「庭訓往来」を見ると武士も商人の子も役立つ内容が含まれるので、寺子屋のカリキュラムは、武士も商人の子も同じく3年だった場合もあるかも知れませんね。
戦国時代ライターkawausoの独り言
寺子屋は江戸時代に急に普及したのではなく、室町・戦国期の寺院での教育がベースにあり、爆発的に増えていったのかも知れませんね。だとすると、寺子屋の師匠、十兵衛先生も存在してもおかしくないのでしょう。
参考文献:日本中世への招待 呉座勇一
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