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【麒麟がくる】戦国時代に寺子屋なんかあったの?


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戦国時代に寺子屋はあった?(1P目)

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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和歌の謎かけや九九を知っていた庶民

京都御所

 

この狂言を見ると、当時の庶民に謎かけの和歌を解く教養や、掛け算九九を理解できる素養があった事が分かります。何故なら、九九や和歌が分からないと「二九十八」のオチが成立しないからです。

 

ちなみに掛け算九九は、すでに万葉集から用例が出てきて、平安時代には、口遊(くちずさみ)という豆知識本に九九が収録され貴族の必修でした。

 

しかし、当時は九×九=八十一、九×八=七十二と、逆に教えていたようです。これが、室町時代には、一×一=一、一×二=二と現在のような覚え方に変化していきました。これにより九九が覚えやすくなり、庶民層にも掛け算が普及したと考えられます。

 

寺子屋で何年勉強した?

内容に納得がいかないkawauso様

 

戦国時代の寺子屋では、子供は何年学んだのでしょうか?

 

毛利元就(もうりもとなり)の家臣だった玉木吉保(たまきよしやす)(1552~1633)は自伝の身自鏡(みじかがみ)によると13歳から3年間、勝楽寺(しょうらくじ)で学んだ事が記されています。それによると、玉木は入塾して最初の5日間で、いろは47文字を学び、続いて仮名で文章を書けるように勉強し、その後、漢字を覚えていきました。

 

孔子と儒教

 

最初の1年目は習字を中心に習い、2年目には読書に比重を置き、「論語」や「四書五経(ししょごきょう)」の漢籍を学び、兵書の「六韜(りくとう)」や「三略(さんりゃく)」、式條(しきじょう)御成敗式目(ごせいばいしきもく))3年目には「古今和歌集(こきんわかしゅう)」、「万葉集」、「伊勢物語」、「源氏物語」のような長い和文学を学んでいます。

 

玉木吉保は武士の子ですが、「庭訓往来(ていきんおうらい)」を見ると武士も商人の子も役立つ内容が含まれるので、寺子屋のカリキュラムは、武士も商人の子も同じく3年だった場合もあるかも知れませんね。

 

戦国時代ライターkawausoの独り言

kawauso 三国志

 

寺子屋は江戸時代に急に普及したのではなく、室町・戦国期の寺院での教育がベースにあり、爆発的に増えていったのかも知れませんね。だとすると、寺子屋の師匠、十兵衛先生も存在してもおかしくないのでしょう。

 

参考文献:日本中世への招待 呉座勇一

 

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はじめての戦国時代

 

 

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kawauso

台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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