曹操が若い頃、素行を治めない不良だった事はよく知られている。
だが、具体的な悪事となると、袁紹と組んで花嫁を盗んだという逸話くらいしかない。
しかし、時々、曹操に媚びへつらう佞臣を見ると、曹操の若い頃の悪い遊びの一端が見えてくる。
以下は、正史三国志明帝紀が引く魏略
孔桂(こうけい)は、字を淑林と言い、天水の人である。
建安初期、たびたび将軍楊秋の使者として、太祖(曹操)の元へ至ったので
太祖は上奏して、彼を騎都尉に任命した。
孔桂はこびへつらって、機嫌を取る性格で博弈(ばくち)や蹴鞠(けまり)が上手だったので、
太祖は彼を愛好し外出する時には、いつも側においていた。
曹操がプライベートで傍に置く人間は、大体いい加減な遊び人と相場が決まっている。
以前、劉備と親しかったのも、劉備が不良でドッグレースのような遊びに詳しかったからだろう。
若い頃の悪い遊びを知っているヤツが近くにいると曹操はリラックスできたのだ。
博弈や蹴鞠も外ならぬ曹操が、達人だったのかもしれない。
しかし、曹操は公私のけじめがあり、結局、孔桂を騎都尉以上にはしなかった。
ここが曹操のドライで立派な所である。
「お前は楽しい奴で、わしの慰みにはなるが、国の役には立たんな」という事なのだ。