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南蛮鎧を着て伊達政宗を負傷させる武勲
その後の岡定俊はトントン拍子で出世していき、氏郷が会津92万石を領有すると1万石の知行を与えられます。小規模ながら江戸時代なら大名と呼ばれる禄高です。
しかし、蒲生氏は氏郷没後に蒲生騒動を起こし、宇都宮18万石に減封になりました。ここで、岡定俊は蒲生氏に見切りをつけ、会津を領地とした上杉景勝120万石に再仕官して、直江兼続から4200石で召し抱えられています。
蒲生氏の半分以下の禄高ですが、定俊の事ですから将来性に目をつけたのかも知れません。さて、関ケ原の合戦の翌年、上杉景勝と伊達政宗の間で福島・松川合戦が起こります。
この前年、上杉景勝と伊達政宗は関ケ原の戦いの関連で長谷堂城の戦いで激突。ここでは西軍の石田三成の敗北により、上杉勢が撤退していました。
関ケ原の戦い以後、徳川家康は諸大名に停戦命令を出していましたが、伊達政宗は上杉の領土への野心が止まず、度々出陣しては敗北、業を煮やした政宗は自ら、上杉領の松川に攻め込んだのです。ここで、政宗を迎撃したのが岡定俊で、折からの時雨を衝いて政宗の本陣近くまで攻め込みます。
そのいでたちは、猩々緋の陣羽織を着込み、角サザエの兜に鳩胸鵄口の南蛮鎧を銀色にピカピカ光らせるという、よく奇襲が掛けられたな?と思える程に派手なもので、例の70両の名馬で馬上から政宗に斬りかかり手傷を負わせたのです。
政宗も負けてはいません「うぬ、小癪な、わしより目立つな!」と返す刀で定俊の陣羽織を切り裂きます。しかし、決着はつかず両者は引き分けに終わりました。
とはいえ、やはり自己PRでは政宗よりも定俊が上でした。
定俊は、陣羽織の切り裂かれた部分を、金糸で刺繍して目立たせ、
「見ろ!ほれ見ろ、ここだ!ここを独眼竜に斬られた!」と自慢して見せて歩いたのです。
これには、伊達政宗も苦笑するしかなかったでしょうね。
傾いた上杉家を財産をはたいて救う
松川合戦より前、上杉景勝は120万石の大大名に出世したものの、相次ぐ天災で領内は飢饉になり、そこに出陣が重なって台所は火の車となりました。
そこで岡定俊は、財テクで貯めたお金を家計に苦しむ仲間に気前よく貸してやり、また上杉景勝には、永楽銭一万貫の軍資金を献上しています。これは、現在価格で2億円にもなる巨額でした。
しかし、それでも関ケ原に負けた上杉家は、120万石を30万石まで減封されます。ここでも上杉に見切りをつけた定俊は、3万石で召し抱えると言ってきた伊達政宗の誘いを断り、かつての旧主、蒲生氏に1万石で再仕官しました。
定俊は慶長14年(1609年)猪苗代の城代で人生を終えますが、蒲生氏に献上した金額トータルは黄金三万三千両に政宗の刀等と膨大な金額に上ったそうです。さらに、定俊は死ぬ前に、全ての借用書を焼き捨て借金を帳消しにしていました。岡定俊こそ、お金は汚く稼いでキレイに使うを実践してみせた名将ではないでしょうか?
戦国時代ライターkawausoの独り言
お金はどんな名剣にも勝り、天下の人を従わせる事が出来るから大事にせよ。岡定俊の持論は、自分の禄高を倍にし困窮した上杉家や蒲生家を救い、生活に苦しんだ同僚を救いました。また、定俊は意外にもクリスチャンだったそうで、人助けはキリスト教の教義の実践だったのかも知れませんね。
参考文献:日本人の給与明細 古典で読み解く物価事情
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