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この記事の目次
応仁の乱と英傑六角高頼
憤死した久頼の後継者、六角高頼は長禄2年(1458年)幕府の命令で廃嫡され、後見人で六角満綱・持綱を殺害した六角時綱の子、六角政堯が近江守護になります。
しかし、政堯は守護代の伊庭氏と抗争を起こし守護代の子の伊庭満隆を殺害した為、長禄4年(1460年)には守護の地位を高頼に返還させられました。
応仁の乱が勃発すると、高頼は重臣の山内政綱と伊庭貞隆に支持され、美濃守護の土岐成頼と共に西軍に参加。東軍の近江守護となった京極持清や六角政堯と戦います。文明2年(1470年)京極持清が病死し、後継者問題で京極騒乱が起きると、西軍には京極高清が加わりました。
近江には、土岐氏の重臣で戦上手で知られた斎藤妙椿の軍勢が加わり、文明3年(1471年)高頼は箕作城を落として六角政堯を討ち取ります。文明9年(1478年)応仁の乱が収束すると翌年には、高頼は幕府に帰参し9代将軍足利義尚により近江守護の座を与えられました。
戦国の先駆け!大暴れする六角高頼
ところが実力主義の気風に慣れた守護大名は、応仁の乱の終息後も軍事力で領内の寺社や荘園領主、公家の領地を押領する行動を止めませんでした。
「ヒャッハー!弱い幕府なんぞクソ喰らえ、今は悪魔がほほ笑む時代なんだぜェ!」
このように北斗の拳の悪党化した守護大名、国衆、守護代が入り乱れて勢力拡大に勤しんでいたのです。六角高頼も同じであり、近江領内の荘園を暴力で併合していました。
これに対し幕府将軍、足利義尚には高頼に領地を奪われた人々から「何とかしてくれ!」と多くの訴訟が寄せられます。幕府は幕府で、応仁の乱で権威がガタガタになっていたので、目立つ悪党をアタタタ!とケンシロウ張りにやっつけて幕府の威信を見せつける必要がありました。
そこで悪目立ちして暴れる近江の六角氏を討伐しようと足利義尚は考えたのです。
足利義尚「六角高頼、お前の為に祈る言葉はのあィ!」
流石に強い幕府軍に高頼は敗れますが、山だらけの地形を利用し甲賀山中に潜伏、ゲリラ戦を展開してしぶとく抵抗します。なかなか高頼の首を獲れない中、義尚は近江守護の座を側近の結城尚豊に与えて遠征を継続しますが、長享3年(1489年)近江鈎の陣中で23歳の若さで病没しました。結局、室町幕府はケンシロウに慣れず仕舞いで終ってしまうのです。
タフなゲリラ大名 六角高頼
延徳2年(1490年)土岐氏に庇護されていた足利義材(足利義稙)が10代将軍に就任し、六角高頼は赦免されます。しかし、高頼の家臣は寺社本領の返還を拒絶したので、延徳3年(1491年)再び幕府による六角攻め「延徳の乱」が勃発しました。高頼は再び甲賀に逃れますが敗北を重ね、伊勢でも北畠氏の軍勢に迎え撃たれて逃亡します。
高頼を追い払った足利義材は、近江守護の座を六角政堯の遺児六角虎千代に与えて、明応元年(1492年)12月に京都に凱旋しました。
やっとケンシロウに成れた義材は、テンションMax!管領の細川政元の諫めも聴かず、翌年、幕府に反抗的な守護大名、畠山義豊を討伐に河内に進軍します。
ところが、ここで大事件が発生します。
京都で留守を守っていた管領の細川政元、日野富子、伊勢貞宗が明応2年(1493年)4月に8代将軍足利義政の異母兄、足利政知の子である清晃を還俗させて足利義高(義澄)とし11代将軍として就任させたのです。
10代将軍、足利義材は不意を衝かれてどうにも出来ず、政元の軍勢に破られて敗北し、政元の配下の上原元秀に降伏しました。さらに自身が伊豆に幽閉されると知った義材は、側近の手引きで京都から脱出して越中の畠山政長の家臣、神保長誠を頼り放生津幕府を開き、京都の足利義高(義澄)政権に対抗するようになります。
こうして室町幕府は、義材の系統と義高の系統に分離、70年以上もシーソーゲームを繰り広げる事になりますがそれは別の機会に解説します。
11代将軍になった足利義高は、六角虎千代を廃して、山内就綱を近江守護に任命しますが、高頼は、この機に乗じて斎藤妙純等の支援を受けて蜂起。山内就綱を京都に追い返し、明応4年(1495年)足利義高の懐柔を受けて近江守護に返り咲きました。ヒャッハー過ぎた六角高頼は、討伐するより近江守護として手懐けようと足利義高は考えたのです。
六角氏戦国大名化する
以後、六角高頼は室町幕府との関係を改善し、細川政元と共に美濃で起きた船田合戦に介入、翌年に美濃斎藤氏、京極氏、朝倉氏による侵攻を招きますが伊勢の軍勢や蒲生氏の支援を受けてこれを撃退し、斎藤妙純を討ち取ります。
次に、足利義材が河内で兵を挙げた畠山尚順に呼応して明応8年(1499年)11月に近江まで南下すると、高頼は坂本で足利義材の軍を奇襲して敗走させました。
一方、流浪した足利義材は、永正5年(1508年)山口の守護大名大内義興を頼ります。
かくして、義興が足利義材を擁して上洛すると、高頼は11代将軍、足利義高を庇護して反抗します。しかし、永正8年(1511年)船岡山合戦で足利義高を擁立していた細川澄元が敗北すると、高頼は、足利義材に恭順しました。
その後の六角高頼は、守護代、伊庭貞隆との対立に勝利し、国人を組織的に六角氏に吸収。幕府奉公衆を家臣に取り込む事に成功するなど、六角氏の戦国大名化を達成し、高頼は永正17年(1520年)に死去しました。
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