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先進的戦国大名 六角定頼が全盛期を築く
六角高頼の死後は、嫡男の氏綱が13代目の六角氏当主となりますが、細川氏との戦いで受けた戦傷で病床に臥し永正15年(1518年)父より先に死去します。高頼は、仏門に入り光室承亀と名乗っていた次男を還俗させ、六角定頼として14代の六角氏当主に据えました。
永正17年(1520年)定頼は、細川高国に合力し、細川澄元配下の三好之長を等持院の戦いで破り、細川政元暗殺後に勃発した両細川の乱を集結に導きます。
その後、足利義材改め、足利義稙が細川高国と対立して出奔すると、定頼は細川高国と共に足利義澄の遺児を12代将軍、足利義晴として擁立。天文15年(1546年)に義晴から管領代に任命され従四位下に叙されました。
ちなみに、出奔した義稙は勢力を得られず、やむなく堺に幕府を開き、義澄の次男で養子にした足利義維(義冬)を後継者にしますが、しばらくして病没します。この義維の子が三好三人衆に擁立され14代将軍になる足利義栄でした。
将軍を擁立した六角定頼は、足利将軍家の威光を後ろ盾に中央政治にも介入し、三好長慶とも江口で戦い、北近江の領主の浅井久政が実力不足で家臣団の統率に支障を来していると見ると、浅井家に侵攻して事実上の従属下に置くなど六角氏の全盛期を築きます。
また、戦国大名としての定頼は、内政でも手腕を発揮し、大永23年には日本の文献史上では最初に家臣団を本拠である観音寺城に集める為に城割を命じ城下町を形成。さらには経済発展の為に、楽市令を出して商人を城下に集め、観音崎を一大商業都市に成長させました。定頼は、天文21年(1552年)に57歳で死去し、家督は15代当主の六角義賢に継がれます。
観音寺騒動で没落
※1561年頃の六角氏周辺勢力(地図は適当です)
定頼の死後、六角氏を継いだ義賢は畿内の覇権を握った三好長慶と度々争いますが、戦況は芳しくなく、その間に北近江で浅井氏が勢力を盛り返します。
若く戦闘力が高い当主、浅井長政は浅井家をまとめて永禄3年(1560年)に野良田の戦いで六角義賢と激突。六角軍が25000に対し、浅井が11000と劣勢でしたが、反撃に転じた浅井氏が押し戻し、最終的には六角氏が敗北し920名の戦死を出しました。
格下と侮っていた浅井氏に敗北した事は六角氏を動揺させ、永禄6年(1563年)には観音寺騒動が起きます。これは、義賢の嫡男で家督を継いでいた六角義治が重臣の後藤賢豊父子を観音寺城で無礼討ちした事を契機に起きた六角氏国衆の反乱でした。
六角義治に人望がなく、後藤賢豊が宿老として大きな権力を持っていた事が事件の背景でしたが、六角氏の有力家臣団は後藤を支持。結局、永田、三上、池田、進藤、平井という家臣が、六角義賢、そして義治を観音寺城から追放します。
その後、六角父子は蒲生定秀・賢秀父子、三雲定持の仲介で観音寺城に復帰しますが、戦国のマグナ・カルタ、六角氏式目への署名を余儀なくされます。六角氏は、こうして当主権限を縮小され、六角氏の家督も義治の弟の義定に譲るなど権力を低下させました。
永禄11年(1568年)織田信長の上洛では、義賢・義治父子は三好三人衆に加勢して、信長の協力要請を拒否、観音崎城に立て籠もりますが、箕作城のような支城を落とされ孤立。夜陰に乗じて甲賀に逃亡します。
ゲリラ活動も成功せず戦国大名としての使命を終える
その後、義賢と義治は甲賀郡北部の石部城に拠点を移して信長に対して、かつて先祖の高頼がしたようにゲリラ的に抵抗します。元亀元年(1570年)6月には体制を立て直し、義賢は甲賀郡から南近江に北進して、長光寺城に立て籠もる佐久間信盛や柴田勝家を激しく攻めたり(野洲河原の戦い)
息子の義治と朝倉義景や浅井長政、三好三人衆と同盟し、野田城・福島城の戦いで織田軍を圧迫するなど執念を見せ、一時は織田信長も六角父子と和睦しました。
しかし、すでに六角氏には単体で織田軍と戦う力はなく、同盟者の浅井長政・朝倉義景が討たれると勢いは無くなり、本拠地の鯰江城を柴田勝家に落とされ、さらに甲賀郡北部の菩提寺城と石部城も佐久間信盛に包囲され、天正2年(1574年)4月13日に両城は陥落。六角義賢は雨の中を甲賀郡の信楽に逃れました。
間もなく、畿内の反織田勢力は駆逐され、義賢が同盟する相手はいなくなります。以後、義賢は歴史の表舞台で目立った活躍をする事なく、本能寺の変後に天下人になった豊臣秀吉の御伽衆として秀吉に仕え、秀吉が死去する前の慶長3年(1598年)3月14日に死去します。享年78歳でした。
息子の義治は慶長17年(1612年)、義定は元和6年(1620年)にそれぞれ死去。子孫は加賀藩士や徳川の幕臣になるなどしましたが、大名として返り咲く事はなかったのです。
日本史ライターkawausoの独り言
六角氏は京都の隣である近江の大名だけに、室町から戦国にかけての動きは必然的に近畿の政治勢力の動きに連動しています。従って六角氏の動きを追っていくと、室町から戦国期の複雑な政治状況がある程度読めてくるのです。六角氏は、何カ国も守護を兼任する大大名ではありませんが、時代を読み室町から戦国期を巧みに泳いだバイ・プレイヤーと言えるでしょうね。
参考:Wikipedia他
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