広告

六角氏が分れば畿内の戦国時代が分かる!トコトン解説


 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


【誤植・誤字脱字の報告】 バナー 誤字脱字 報告 330 x 100



【レポート・論文で引用する場合の留意事項】 はじめての三国志レポート引用について



先進的戦国大名 六角定頼が全盛期を築く

長安(俯瞰で見た漢の時代の大都市)

 

六角高頼の死後は、嫡男の氏綱が13代目の六角氏当主となりますが、細川氏との戦いで受けた戦傷で病床に臥し永正15年(1518年)父より先に死去します。高頼は、仏門に入り光室承亀(こうしつじょうき)と名乗っていた次男を還俗(げんぞく)させ、六角定頼として14代の六角氏当主に据えました。

 

永正17年(1520年)定頼は、細川高国に合力し、細川澄元配下の三好之長(みよしゆきなが)等持院(とうじいん)の戦いで破り、細川政元暗殺後に勃発した両細川の乱を集結に導きます。

 

その後、足利義材改め、足利義稙が細川高国と対立して出奔すると、定頼は細川高国と共に足利義澄の遺児を12代将軍、足利義晴(あしかがよしはる)として擁立。天文(てんぶん)15年(1546年)に義晴から管領代に任命され従四位下(じゅしい・げ)(じょ)されました。

 

ちなみに、出奔した義稙は勢力を得られず、やむなく堺に幕府を開き、義澄の次男で養子にした足利義維(義冬)を後継者にしますが、しばらくして病没します。この義維の子が三好三人衆に擁立され14代将軍になる足利義栄でした。

 

戦国時代最初の天下人・三好長慶

 

将軍を擁立した六角定頼は、足利将軍家の威光を後ろ盾に中央政治にも介入し、三好長慶(みよしちょうけい)とも江口で戦い、北近江の領主の浅井久政(あざいひさまさ)が実力不足で家臣団の統率に支障を来していると見ると、浅井家に侵攻して事実上の従属下に置くなど六角氏の全盛期を築きます。

 

にぎわう市(楽市・楽座)

 

また、戦国大名としての定頼は、内政でも手腕を発揮し、大永23年には日本の文献史上では最初に家臣団を本拠である観音寺城に集める為に城割を命じ城下町を形成。さらには経済発展の為に、楽市令を出して商人を城下に集め、観音崎を一大商業都市に成長させました。定頼は、天文21年(1552年)に57歳で死去し、家督は15代当主の六角義賢に継がれます。

 

観音寺騒動で没落

 

※1561年頃の六角氏周辺勢力(地図は適当です)

 

定頼の死後、六角氏を継いだ義賢は畿内の覇権を握った三好長慶と度々争いますが、戦況は芳しくなく、その間に北近江で浅井氏が勢力を盛り返します。

 

若く戦闘力が高い当主、浅井長政は浅井家をまとめて永禄3年(1560年)に野良田の戦いで六角義賢と激突。六角軍が25000に対し、浅井が11000と劣勢でしたが、反撃に転じた浅井氏が押し戻し、最終的には六角氏が敗北し920名の戦死を出しました。

 

浅井長政(あざいながまさ)

 

格下と侮っていた浅井氏に敗北した事は六角氏を動揺させ、永禄6年(1563年)には観音寺騒動(かんのんじそうどう)が起きます。これは、義賢の嫡男で家督を継いでいた六角義治が重臣の後藤賢豊父子を観音寺城で無礼討ちした事を契機に起きた六角氏国衆の反乱でした。

 

六角義治に人望がなく、後藤賢豊が宿老として大きな権力を持っていた事が事件の背景でしたが、六角氏の有力家臣団は後藤を支持。結局、永田、三上、池田、進藤、平井という家臣が、六角義賢、そして義治を観音寺城から追放します。

 

西遊記巻物 書物_書類

 

その後、六角父子は蒲生定秀(がもうさだひで)賢秀(かたひで)父子、三雲定持の仲介で観音寺城に復帰しますが、戦国のマグナ・カルタ、六角氏式目(ろっかくししきもく)への署名を余儀なくされます。六角氏は、こうして当主権限を縮小され、六角氏の家督も義治の弟の義定に譲るなど権力を低下させました。

 

麒麟にまたがる織田信長

 

永禄11年(1568年)織田信長の上洛では、義賢・義治父子は三好三人衆に加勢して、信長の協力要請を拒否、観音崎城に立て籠もりますが、箕作城のような支城を落とされ孤立。夜陰に乗じて甲賀に逃亡します。

 

ゲリラ活動も成功せず戦国大名としての使命を終える

戦にめっぽう強い柴田勝家

 

その後、義賢と義治は甲賀郡北部の石部城に拠点を移して信長に対して、かつて先祖の高頼がしたようにゲリラ的に抵抗します。元亀元年(1570年)6月には体制を立て直し、義賢は甲賀郡から南近江に北進して、長光寺城に立て籠もる佐久間信盛(さくまのぶもり)や柴田勝家を激しく攻めたり(野洲河原(やすがわら)の戦い)

 

三好三人衆

 

息子の義治と朝倉義景や浅井長政、三好三人衆と同盟し、野田城・福島城の戦いで織田軍を圧迫するなど執念を見せ、一時は織田信長も六角父子と和睦しました。

 

佐久間信盛

 

しかし、すでに六角氏には単体で織田軍と戦う力はなく、同盟者の浅井長政・朝倉義景が討たれると勢いは無くなり、本拠地の鯰江城(なまずえじょう)を柴田勝家に落とされ、さらに甲賀郡北部の菩提寺城と石部城も佐久間信盛に包囲され、天正2年(1574年)4月13日に両城は陥落。六角義賢は雨の中を甲賀郡の信楽(しがらき)に逃れました。

 

間もなく、畿内の反織田勢力は駆逐され、義賢が同盟する相手はいなくなります。以後、義賢は歴史の表舞台で目立った活躍をする事なく、本能寺の変後に天下人になった豊臣秀吉の御伽衆として秀吉に仕え、秀吉が死去する前の慶長3年(1598年)3月14日に死去します。享年78歳でした。

 

幕末 臨終のシーン 亡くなる(死)モブ

 

息子の義治は慶長17年(1612年)、義定は元和(げんな)6年(1620年)にそれぞれ死去。子孫は加賀藩士や徳川の幕臣になるなどしましたが、大名として返り咲く事はなかったのです。

 

日本史ライターkawausoの独り言

 

六角氏は京都の隣である近江の大名だけに、室町から戦国にかけての動きは必然的に近畿の政治勢力の動きに連動しています。従って六角氏の動きを追っていくと、室町から戦国期の複雑な政治状況がある程度読めてくるのです。六角氏は、何カ国も守護を兼任する大大名ではありませんが、時代を読み室町から戦国期を巧みに泳いだバイ・プレイヤーと言えるでしょうね。

 

参考:Wikipedia他

 

関連記事:なぜ戦国大名は上洛したがるのか?上洛のメリットも分かりやすく解説

関連記事:【日本史B】読むだけで5点は取れる日本史戦国大名編

 

織田信長スペシャル

 

 

  • この記事を書いた人
  • 最新記事
kawauso

kawauso

台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

-戦国時代 (日本)
-