kawauoは、戦国時代の記事を書き出して2年が経過し、次第に歴史本に書いている事をそのまま受け止められないひねくれた中年になってきました。人間的にはどうかと思いますが、日本史ライターとしてはそれでいいのです。
特に、前からギモンだったのは、東洋のヴェニスと呼ばれた堺の納屋衆の本業が倉庫屋だったという事でした。失礼ですが、倉庫屋って巨万の富を築けるほどに儲かるもんなんでしょうか?そう思い調べてみると、目からウロコが落ちる納屋衆の生き残り戦略、付加価値付けまくりのカラクリが見えてきたのです。
この記事の目次
現代でも儲かっている倉庫屋
同じ物流業界でも、業種別の営業利益や経常利益には大きな開きがあるそうです。例えば、毎年の上場企業を中心とした決算を見ると、陸運業が1%の利益を出す事に必死であるのに対し、倉庫業は利益5~7%で利益率上位の会社では、2桁の利益率を出している会社も多くあるのです。
どうして同じ物流会社で、10倍以上の利益率の差が出てくるのでしょうか?
解説によるとそれは倉庫業が
①土地、建物、設備という大きな投資をしている。
②倉庫の立地を確定させる、他にはない物流インフラを形として表現している。
③商品・荷物に対する時間的占有率が高い。
この3つの要素を満たしているからだそうです。第1に、売り物である商品は野ざらしには出来ません。雨や雪や太陽光線からの劣化や盗難の恐れもあり、自前の倉庫がないなら、どうしても倉庫業者の倉庫に保管する必要があるわけです。
また、陸運業と違い倉庫業は、土地と建物と設備に大きな投資が必要で業者だってそう多くはありません。それだけ競争原理が働きにくく、借り手が交渉で不利になり高い利益を上げる事が出来るわけです。
しかし、倉庫業の高い利益率の1番の理由は、③の商品・荷物に対する占有率でした。この占有率こそが、戦国の納屋衆を儲けさせた理由だったのです。
占有率を上げる為に納屋衆は販売ルートを拡大した
元々は貸し倉庫屋だった納屋衆が、どうして全国に販売ルートを拡大したり、金融業を始めたりしたのか?
それは、倉庫に収めた商品をなるべく長期間確保しておきたいからでした。長い時間、倉庫に荷物を保管すればするだけ、荷主から多く蔵敷料を取れるからです。しかし、借り手からすれば、レンタル料は少ない方がいいわけで、出来るだけ早く荷受けしようとします。貸し手と借り手の利益は相反するのです。
ここで納屋衆は閃いて、荷主にささやいたのです。
「預けて頂いた商品は、私共が責任を持って高く売れる市場に持って行きますよ」
荷主は、商品を持っているものの、それが全て売れる保証はありません。だから、納屋衆が商品を代わりに高く売ってくれるなら、その方がいいわけです。むしろ売りさばく手間を代行してもらい、自分は仕入れる事に専念した方が儲けは大きくなるでしょう。こうして納屋衆は商品を預かる以外のサービスを開始し販路を拡大していったのです。
納屋衆は付加価値で儲けた
納屋衆は、商品の運搬費や関所の通行料や人足の人件費を蔵敷料として上乗せします。それが幾らになったか分かりませんが、荷主としても、それが確実に売れるなら、自分が手間と危険を冒して売りさばくより、ずっと割が良いと感じ支払ったでしょう。言い換えると、納屋衆は倉庫屋でありながら、商品を売りさばくという本来の業務を越えた付加価値をつける事で蔵敷料を上乗せし、高い利益率を確保したのです。
やがて財力を蓄えた納屋衆は、商品を預かるだけでなく、その場で買い付けるなどして、欧州や中国、東南アジアの珍しい品物を大量に保有していきました。
ただの倉庫屋だった納屋衆が戦国日本有数の大金持ちに変貌したのは、この高い付加価値を見出したせいなのです。
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