17世紀は、世界史的にもオランダの黄金時代と呼ばれています。その時代、オランダでは貿易、科学、軍事、芸術が世界最高水準に到達しました。しかし、オランダは欧州の小国に過ぎず、16世紀には神聖ローマ帝国の一部に過ぎません。
そんな小さな国が、どうして17世紀の世界で最強になったのでしょうか?
今回のまるっと世界史は、近代にも通じる国家繁栄の秘訣を黄金の17世紀から紐解きます。
この記事の目次
オランダの前身ネーデルラント時代
15世紀のオランダは、ネーデルラントと呼ばれ、現在のオランダ、ベルギー、ルクセンブルクが含まれた16州から構成されたブルゴーニュ公国の一部でした。この頃のネーデルラントは、毛織物の生産により経済的先進地となり、ガンやアントワープなどの富裕な都市を産み出していきます。
しかし、1477年にブルゴーニュのシャルル豪胆公が戦死すると、豪胆公の一人娘のマリー女公は神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世と結婚し、ネーデルラントはハプスブルグ家の所領になります。
スペインからの独立戦争
その後、神聖ローマ皇帝カール5世の時代に入るとネーデルラント16州は受難の時代を迎えます。カトリックの庇護者であるカール5世に対し、ネーデルラントでは新教のプロテスタント、カルヴァン派が普及していたからです。
やがてスペインからの使者による宗教裁判、異端審問が行われ、その横暴さから迫害を受けたプロテスタントのみならずネーデルラントのカトリックも、スペインの統治を憎悪するようになりました。
カール5世の後を継いだスペイン王フェリペ2世は、カール5世以上に妥協も譲歩もしない強権的なネーデルラント統治を続け、ついに1568年、我慢できなくなったネーデルラント諸州は、有力貴族のオラニエ公ウィレム1世を先頭に反乱を起こします。
ネーデルラント共和国として独立
戦争は当初、大国スペインが有利であり、ネーデルラントの低地諸国はことごとく再占領されますが、途中でイングランドとスペインの間で英西戦争が勃発した事でスペインの進軍が停止しました。
これを受けてネーデルラント北部7州は勢いを盛り返します。西暦1585年8月17日、当時の世界で最も重要な港であるアントワープがスペインから、北部7州の手に落ちました。
こうして、ネーデルラントは、北部7州が独立してネーデルラント連邦共和国と名乗り、カトリックが多いスペイン領の南部ネーデルラント10州との分離が確定します。
独立戦争は、その後も継続して続きますが、ドイツ30年戦争を終結させた1648年のヴェストファーレン条約によりネーデルラント共和国が国際的に独立国として認知され、正式にスペインからの独立を果たしました。このネーデルラント共和国が現在のオランダの直接の先祖にあたり、南部10州はベルギーやルクセンブルクとなりました。
カルヴァン派の金持ちがオランダに集まる
オランダが繁栄を極める契機には富の流入が関係しています。
1585年アントワープが陥落した時の条件で、南部ネーデルラントに住むプロテスタント・カルヴァン派住民には、カトリックへの改宗、それが無理ならプロテスタント国への移住など、身の振り方を考えるよう4年間の猶予期間が与えられます。
カルヴァン派の住民は、熟練工やブルッヘ、ヘント、アントワープの金持ち商人が多く、彼らは考えた末に、カトリックの土地で肩身の狭い思いをするより、プロテスタントが圧倒的に多いネーデルラント共和国への移住を選びます。
こうして、多くのプロテスタントは、小さな港だったアムステルダムに住み着き、1630年までにアムステルダムは世界で最も重要な港町、商業の中心地へと拡大していきました。
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