こちらは3ページ目になります。1ページ目から読む場合は、以下の緑ボタンからお願いします。
この記事の目次
織田信長は宣教師たちに興味津々
信長は宣教師たちに度々面会したとされていて、非常に関心を持っていたとされています。また、堺を勢力化に置き、南蛮貿易にも力を入れています。宣教師たちが、地球儀や時計などを献上すると喜んだという記録があります。
その対価として、布教を容認してもらっていたとも考えられます。また、あるとき黒人(弥助)を初めて信長に会わせたとき、とても驚いたそうです。信長は、生まれつき肌が黒いことを中々信じませんでした。
そして、その黒人が片言の日本語を話せたことを気に入り「家臣にしたい!」と言いだします。
宣教師たちは、そのように取り計らいます。
信長の傍に仕えた黒人武士は、本能寺の変でも明智勢と戦ったという記録があります。捕らえられましたが、明智光秀によって宜教師に返されます。が、その後の消息については不明ということです。
秀吉のバテレン追放令
信長の死後、秀吉も基本的にイエズス会に好意的でした。が、九州征伐の際に宣教師やキリシタン大名によって神社や寺が焼かれているのを見て態度を硬化させていきます。また、日本人がポルトガル商人によって奴隷として海外に売られていたこと、長崎が要塞化していることを知り、激怒したと言われています。
そして、バテレン追放令を出します。が、宣教師たちは粘り強く秀吉と交渉し、日本を退去せずにすむことになります。秀吉の天下統一後には、キリシタン大名の蒲生氏が東北に配置換えとなります。それに宣教師たちも同行して、今度は東北地方で布教していきます。
そこでもイエズス会は、伊達政宗に接近し大きな影響を与えることになります。
関連記事:豊臣秀吉によるバテレン追放令の内容とは?戦国時代のキリスト教事情
イエズス会はポルトガルと手を組み日本を植民地にしようとしていた?
イエズス会の1部には、他のアジア地域で行ったように、ポルトガルの武力によって日本を植民地化しようとする意見もあったそうです。有力な大名たちをキリスト教化して、武装蜂起させ、自分たちの傀儡政権を作ろうというものです。
実際に、九州のキリシタン大名を一致団結させ、要塞化した長崎を拠点として独立させようとしていたとも言われています。しかし、秀吉がこれを察知して先手を打ったことによって、日本が植民地化されることはありませんでした。
しかも、この計画はイエズス会の宣教師たちの総意ではありません。日本文化を尊重し、日本人に本当にキリスト教の良さを知ってもらいたいとだけを考え、身を粉にして布教していた方々もたくさんおられます。だからこそ、今でもクリスマスをお祝いするような文化が、日本にも根付いたのでしょう。
戦国ライターしばがきの独り言
今回整理してみて、イエズス会も、ポルトガルも日本の大名たちもさまざまな思惑の中で駆け引きを行っていたことが良く分かりました。これほど日本に浸透したということは、やはりキリスト教には人々を引きつける大きな魅力があるというこなのでしょう。
フランシスコ・ザビエルは、日本に大学を設立したいという夢を持っていたそうです。その夢は、1913年に上智大学という形で実現します。現在でも上智大学は、イエズス会の精神を大切に引き継いでいるそうです。
一見、戦国時代とは無関係に思えるような場所にも、歴史で繋がっているということを感じさせられるお話ですよね。戦国時代、イエズス会、ポルトガル商人、キリシタン大名などは、まだまだエピソードが多いので、他の記事もぜひ読んでみてください。では、またどこかでお会いしましょう!
関連記事:戦国日本は多神教でキリスト教は相容れないは嘘だった?
関連記事:豊臣秀吉によるバテレン追放令の内容とは?戦国時代のキリスト教事情
関連記事:明智光秀はキリスト教嫌いだった?南蛮文化が流行していた織田家の関係も?