南蛮貿易は、日本・中国の明と、ポルトガル・スペインの間で行われた貿易です。南蛮というのは、ヨーロッパの南部を指していて、おおよそ南蛮人とはポルトガル人とスペイン人のことになります。
南蛮貿易の時期は、1500年代の中ごろから1800年ごろまでと長く、日本では戦国時代~江戸時代という激動の時代でした。領土拡大を狙うポルトガル・スペイン。アジアへのキリスト教布教を図るカトリック系教会。
貿易によって儲けようと考えていた日本の商人や戦国大名たち。と、いったさまざまな思惑が入り混じる複雑なものになっています。今回は、そんな南蛮貿易を、なるべく分かりやすくお伝えしていきたいと思います。
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南蛮貿易が始まる前
ごめんなさい、少しだけ世界史の授業です。ポルトガルは、アジアの香辛料を求めて、1947年にバスコ・ダ・ガマ艦隊を派遣。アフリカ経由(南アフリカの喜望峰を周って!)でインドに到達します。
その後は…。武力でインドを支配します!
そして、インド近辺での貿易で利益がでることが分かると、ポルトガルはさらに東へ進出しようと考えます。次に、マレー半島のマラッカも占領しましたが、これによりポルトガル人の評判は、アジアでガタ落ちします。
「めっちゃ強引に港に入ってくるやつおるで」
中国の明は、その噂を聞いていたので、全ての港でポルトガル船をみかけたら武力でもって徹底的に寄せ付けませんでした。というようなこともあって、だんだんと日本本土へ近づくころには、ポルトガルもやや温和な政策を取るようになっていました。
1543年、ポルトガル人を乗せた船が種子島に漂着
教科書にありましたね。
これが、ヨーロッパ人が初めて日本に来たときで、南蛮貿易の全ての始まりです。1542年という説もあります。この船は、密貿易商人の中国人「王直」の船でした。
そもそも、王直はこの海域で暴れまわる倭寇と呼ばれる海賊でした。ポルトガル人商人たちは、そういった海賊たちと一緒に密貿易を行っていたのです(商売第一)。
鉄砲の伝来
はい、これも習いましたね。このとき、種子島時尭はポルトガル人のもっていた鉄砲を購入します。これが、後に戦国の世であった日本に急速に広まることになります。
ほとんど伝説の類ですが、鋳物師の八板金兵衛は、ポルトガル人船長に娘を差し出しその代わりに製法を教わったと言われています。また、これをきっかけに、ポルトガル人たちの間では、日本人は貿易をしたがっていると噂になります。そして、九州各地の港に次々に訪れるようになるのです。
九州の諸大名たちが次々に交易を開始
九州の有力な諸大名たちは、鉄砲と貿易での利益をもくろんで次々と交易を開始します。鹿児島港を拠点とした島津氏、松浦氏の平戸、大村氏の横瀬、大友氏の府内(大分)などが有名です。しばらく前に、明からマカオを拠点として使うことをようやく許されたポルトガル商人たち。
松浦氏と交渉を繰り返し、平戸・マカオの定期ルートを開設することに成功します。
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