覚恕法親王とはどんな人?実はそんなに悪党でもなかった?


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覚恕法親王とはどんな人?(1P目)

 



監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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信長の報復が比叡山焼き討ちを招く

ちょっとしたことでブチ切れる織田信長

 

信長は、比叡山に出した手紙の約束を忘れていませんでした。

 

元亀2年9月11日の夜より織田軍は、比叡山の東麓(とうれい)を3万人の兵力で隙間なく取り巻き、早朝の攻撃の合図を待ったのです。それを察知した比叡山は、黄金の判金を300枚、堅田から200を贈り、攻撃の中止を嘆願しますが信長はこれを突き返しました。比叡山もいよいよ覚悟を決め、坂本周辺の僧侶、僧兵を山頂の根本中堂に集合させ、坂本の住民や妻子は山の方に逃げます。

 

廃仏毀釈

 

そして、9月12日の夜明けに信長は総攻撃を命じ、比叡山は一夜にして焼け落ちたのです。覚恕は比叡山焼き討ちを前もって知っており、9月7日から朝廷に働きかけて信長を止めようとしていたようで、焼き討ちの当日、比叡山に居ませんでした。

 

しかし、事の発端が自分にある事を理解していた覚恕は天台座主を辞めようとしますが、周囲が止めたのか、そのまま座主の地位に留まっています。

 

武田信玄と相前後して死去

真田丸 武田信玄

 

その後の覚恕は、比叡山再建の要請を武田信玄に仲介したりし、その見返りなのか覚恕が斡旋して信玄を権僧正(ごんのそうじょう)に任じています。武田信玄は、その後、反織田包囲網に参加して上洛を目指していますが、その動機には比叡山焼き討ちに対する怒りもあったようです。ここには、覚恕との関係を推測する事が出来ます。

 

覚恕は事件後、曼珠院に戻り天正元年(1573年)の朝廷内の行列に参列している事がうかがえるそうです。しかし、覚恕は同年末に発病し、竹田定加(たけだじょうか)の診療を受けたものの、翌年早々に薨去しました。享年54歳。武田信玄は、1573年の5月に亡くなったので、信玄死去の7か月後の死という事になります。

 

覚恕の年表

水滸伝って何? 書類や本

 

大永元年(1522年):後奈良天皇の皇子として誕生。

大永3年(1524年):曼珠院門跡慈運を師として得度(出家)

天文6年(1527年):慈運の死後、北野天満宮別当を相続

弘治3年(1557年):准三宮宣下を受け金蓮院准后となる

永禄5年(1562年):尊朝法親王の戒和上を務める

元亀元年(1570年):天台座主166代目に輔任。同年志賀の陣で浅井・朝倉軍を庇護

元亀2年(1571年):9月12日、織田軍3万、比叡山を焼き討ち、覚恕、天台座主を辞めようとするも留任。

天正2年(1574年):死去、54歳

 

戦国時代ライターkawausoの独り言

kawauso 三国志

 

覚恕が織田信長に良い印象がない事は、織田家に比叡山の荘園を横領されていた事からも間違いないと思います。ただ、織田包囲網の黒幕かというと、どうもそこまで強い執念を持っているとは思えず、どちらかというと志賀の陣の黒幕は朝倉義景ではないかと思います。

 

しかし、人脈が広かったのは事実なので、反織田家で諸大名を結びつける役割を一定程度、果たしたのではないでしょうか?

 

参考:Wikipedia

 

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武田信玄

 

 

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kawauso

台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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