延暦寺や興福寺だけじゃない日本全国ヒャッハー僧兵を紹介




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比叡山の僧兵(僧侶)

 

僧兵(そうへい)と聞くと、南都北嶺(なんとほくれい)と言うように南都の興福寺(こうふくじ)と北嶺の延暦寺(えんりゃくじ)が連想されます。この2つの寺院は、平安時代から数千名の武装した僧兵を駆使(くし)神輿(みこし)を担いで朝廷や幕府に押しかけて自分達の要求を通そうとする強訴(ごうそ)で有名でした。

 

しかし、戦国時代ともなると、ヒャッハー僧兵は南都北嶺だけではなく全国各地に存在。各地の戦国大名と抗争したり、協力したりしていました。今回は、そんな全国のヒャッハー僧兵を紹介しましょう。




東北の僧兵

八甲田雪中行軍遭難事件(雪山)

 

東北の僧兵には、修験道の聖地として有名な出羽三山(でわさんざん)がありました。最盛期には8000人もの僧兵を持ち一大勢力でしたが、豊臣秀吉(とよとみひでよし)の刀狩りに応じて武器を供出しています。

 

また、福島県磐梯町(ばんだいちょう)には、恵日寺(えにちじ)という真言宗豊山派(しんごんしゅうぶざんは)の寺院があり、3000名の僧兵を持ち、会津(あいず)を支配下に置きました。

 

伊達政宗

 

しかし、天正17年(1589年)摺上原(すりあげはら)の戦いで蘆名義広(あしなよしひろ)に勝利した伊達政宗(だてまさむね)が会津に侵攻した時に戦火に巻き込まれ軍事力を喪失します。




関東の僧兵

五重塔(仏塔)仏教

 

関東地方では、栃木の日光山輪王寺(にっこうさんりんのうじ)が多数の僧兵を抱えて関東有数の武装勢力に成長しました。戦国時代には、宇都宮氏の重臣、壬生綱房(みぶつなふさ)の謀略で壬生氏の傘下に入り、その後、後北条氏が勢力を伸ばすと従います。

 

ありがとうございます(豊臣秀吉)

 

その為に、小田原征伐で北条氏が豊臣秀吉の軍門に降ると一時、寺領を没収されて衰退しました。しかし、その後関東に移封された徳川家康の保護で勢力を回復します。

 

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北陸の僧兵

織田信長と本願寺顕如(石山合戦)

 

北陸は、延暦寺、真言宗、一向宗と仏教宗派が入り乱れ、僧兵の数も特別に多い土地でした。中でも一向宗の勢力が強く、織田家や朝倉家の名だたる武将と激闘したり、手を結んだり忙しい土地です。

 

・延暦寺系統

 

白山平泉寺(はくさんへいせんじ)…延暦寺末寺(まつじ)、最盛期には8千人の僧兵を抱えて越前に勢力を伸長するが、天正2年(1574年)一向一揆との抗争で全山が焼失したので、織田信長や豊臣秀吉のような戦国大名と結んで寺領を回復。

 

・真言宗系統

 

石動山天平寺(いするぎやまてんぴょうじ)…真言宗の寺で、山岳信仰の拠点、3千もの僧兵を抱えて能登に君臨。

 

しかし、天正10年(1582年)の本能寺の変に乗じて越後上杉方についていた能登畠山氏旧臣が蜂起し天平寺宗徒と石動山に立て籠った所を、前田利家、佐久間盛政、長連龍(ちょうつらたつ)のような織田軍に焼き討ちされ壊滅。

 

戦場で活躍する佐久間盛政

 

・一向一揆系統

 

本願寺顕如

 

真言宗大谷派井波別院瑞泉寺(しんしゅうおおたには・いなみべついん・ずいせんじ)…一向宗寺院で越中一向一揆の拠点。

天正9年(1581年)織田軍、北陸方面軍佐々成政の焼き討ちに遭い軍事力を喪失。

 

勝興寺(しょうこうじ)…瑞泉寺と並び越中一向一揆の拠点。天正9年石黒成綱(いしぐろなりつな)に焼き討ちされ軍事力喪失。

 

尾山御坊(おやまごぼう)…一向宗の寺院、加賀一向一揆の拠点、佐々成政に敗れ、軍事力を喪失。

 

吉崎御坊(よしざきごぼう)…一向宗の寺院、加賀・越中の門徒を集め北陸の一向一揆の拠点。

しかし、永正3年(1506年)九頭竜川の戦いで、越前の名将朝倉宗滴に敗れ勢力を喪失。

 

東海の僧兵

真田丸 武田信玄

 

東海地方では、武田信玄と因縁深い、諏訪大社(すわたいしゃ)浅間大社(せんげんたいしゃ)のような神社勢力が戦国大名化していました。例えば諏訪大社では、戦国時代に大祝職(おおはふりしょく)諏訪頼重(すわよりしげ)のような人物が戦国大名化して、武田信玄と戦っています。

 

浅間大社も、武田信玄の駿河侵攻に巻き込まれ武田を相手に頑強に抵抗しますが穴山信君を通して降伏し軍事力を喪失しました。また、東海地方にも一向宗の勢力が伸びており、戦国大名の徳川家康を悩ませたり、織田信長と激闘したりしています。

 

・一向一揆系統

天下を収めた徳川家康

 

本證寺(ほんしょうじ)…一向宗の寺院、三河一向一揆の際、上宮寺(じょうぐうじ)勝鬢寺(しょうまんじ)などとともに一向宗門徒の拠点の1つとなる。

徳川家康に対して頑強に抵抗するが、永禄7年(1564年)小川の戦いで敗れ勢力を喪失。

 

照蓮寺(しょうれんじ)…一向宗の寺院、帰雲城主内ヶ島氏(かえりくもじょうしゅ・うちがしまし)と手を結んで勢力を拡大し全盛期には大名に匹敵するほどの大勢力を築く。

三木氏(みつきし)の後、飛騨を治めた金森長近(かなもりながちか)は照蓮寺を恐れ、弾圧政策を取ったので勢力衰退。

ちょっとしたことでブチ切れる織田信長

 

願証寺(がんしょうじ)…一向宗の寺院、長島一向一揆の拠点として伊勢湾一帯を治める大勢力となる。

織田信長に対し三度も激しく抵抗するが、天正2年(1574年)の第三次長島侵攻で激戦の末に壊滅。

 

近畿の僧兵

藤原京(地図)

 

近畿は、京都や奈良があり延暦寺、興福寺、石山本願寺、真言宗、天台宗、神社勢力が混然一体となり、離合集散と抗争を繰り返しました。

 

・石山本願寺系

一向一揆(農民)

 

①石山本願寺…独自の僧兵集団ではなく、国人や庶民を動員した一向一揆を通じて一揆を扇動。絶大な影響力・軍事力を誇ったが、織田信長との10年に及ぶ石山合戦に敗れ、軍事勢力としては消滅した。

 

・高野山系

西遊記はどうやって出来たの?三蔵法師編

 

①高野山…真言宗の開祖・空海(くうかい)開山。高野衆(こうやしゅう)と称された大規模な僧兵集団を持ち、天正9年(1581年)紀州征伐に来た織田勢を撃退した。天正13年(1585年)に豊臣秀吉の紀州征伐では降伏勧告に応じ軍事力を喪失。

 

・真言宗系

滝川一益

 

聖衆寺(せいしゅうじ)…千人の僧兵を抱える真言宗の大寺院であったが、天正年間滝川一益の北伊勢攻撃で焼討ちされ壊滅的な被害を受ける。

 

・根来衆

雑賀孫市(雑賀衆)

 

①根来寺…真言宗から独立した新義真言宗の寺院。根来衆とよばれる僧兵1万を擁した紀州屈指の大勢力。

また、根来寺僧が種子島から火縄銃一挺が持ち帰ってより強力な鉄炮隊を擁し、鉄砲傭兵として活躍した。

しかし、本能寺の変後、天下人豊臣秀吉による紀州征伐で制圧され軍事力を喪失。

 

・天台宗系

 

三岳寺(さんがくじ)…大同2年(807年)に伝教大師が開祖と伝わる天台宗山門派の大寺院。

 

元々鈴鹿山脈の国見岳にあったが、比叡山焼き討ちより以前、永禄11年(1568年)に、織田信長の命令を受けた滝川一益の軍勢が襲い、数百人の僧兵が抵抗するも、堂宇がことごとく焼け落ちて衰退。

 

三国志のモブ 反乱

 

粉河寺(こかわでら)…天台宗系寺院。粉河衆と称された中小規模の僧兵集団を擁したが、豊臣秀吉による紀州征伐で制圧され軍事力を喪失。

 

・神社系

京都御所

 

日前神宮・國懸神宮(ひのくまじんぐう・くにかかすじんぐう)…日本最古の神社の1つ。広大な社領を所有。

雑賀衆(さいかしゅう)と度々武力衝突を起こして勢力が盛んだったが、天正13年(1585年)豊臣秀吉による紀州征伐で制圧軍事力を喪失。

 

多武峰妙楽寺(とうのみねみょうらくじ)…興福寺と度々武力衝突を起こした武闘派神社。天正13年(1585年)大和を統治した豊臣秀長(とよとみひでなが)の武装解除要求に応じ武器供出。

豊臣秀吉の弟・豊臣秀長

 

金峯山寺(きんぷせんじ)…吉野大衆と呼ばれた僧兵を抱え、勢力は南都北嶺にも劣らないとされた。多武峰妙楽寺同様に、大和に入国した豊臣秀長の武装解除要求に応じる。

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