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中国の僧兵
中国地方は、天台宗系の寺院と、出雲大社や厳島神社のような神社系が並立していました。
・天台宗系
①大山寺…天台宗寺院。鎌倉時代3千人の僧兵を擁し度々僧兵同士の武力衝突を起こす困った寺。戦国時代、秀吉の刀狩りで軍事力を喪失。
②鰐淵寺…元々は修験場だったが、平安時代に比叡山に接近し天台宗寺院になる。広大な寺領と数多くの僧兵を抱えた出雲有数の勢力。
戦国時代、毛利元就の庇護で勢力を維持し豊臣秀吉の刀狩りにより軍事力を喪失。弁慶が修行していた伝説がある。
・神社系
①出雲大社…鰐淵寺と関係が深く、同寺と並ぶ出雲有数の勢力。豊臣秀吉の刀狩りにより軍事力喪失。
②厳島神社…平家の氏神として有名、広島湾一帯を支配する水軍を備えた国人勢力として独立。
しかし、天文9年(1540年)の吉田郡山城の戦いで毛利・大内氏から尼子氏に鞍替えするも、翌年、毛利・大内連合軍が尼子氏に勝利。大内氏により制圧され軍事力を失う。その後毛利氏により社殿が修復され、再び勢力が盛んになる。
四国の僧兵
四国では真言宗の八坂寺が有名で、熊野権現を勧進して十二社権現とともに祀り、修験道の根本道場として栄え僧兵も擁していた大寺ですが、天正年間に神社が焼失し勢力が弱まりました。
九州の僧兵
九州は神社勢力が強く、戦国時代には戦国大名化したり、戦国大名の崇敬を受けたりしています。
①宗像大社…鎌倉時代に宮司宗像氏が武士化するも、大内氏、大友氏、少弐氏の援軍に駆り出され、大社も焼き討ちされるなどで被害を受け一時衰退する。
戦国時代、大宮司であった宗像氏貞の時代に最大の版図を築くが、氏貞死後、妻子も相次いで亡くなり混乱、豊臣秀吉の九州の役の際に社領を没収され軍事力を失った。
②阿蘇神社…肥後国一宮とされて崇敬を受け、広大な社領を有し阿蘇氏は戦国大名としても勢力を伸ばした。
しかし、豊薩合戦の際、島津氏の侵略を受けて降伏、さらに豊臣秀吉の九州の役の際に社領を没収され戦国大名としては終焉。
③宇佐八幡宮…豊前国一宮として大内氏の崇敬を受けた九州一の荘園領主。
宇佐郡の事実上の国人領主の盟主として繁栄したが田原親賢が守護代となって以降、大友氏と敵対。大内氏が陶氏に滅ぼされ没落すると大友宗麟の手で焼き討ちされ衰退。
④英彦山…修験道場として最盛期には数千名の僧兵を擁した。戦国時代、英彦山が秋月種実と軍事同盟を締結。
その為、天正9年(1581年)秋月氏と敵対した大友義統による焼き討ちを受け勢力が衰退。
⑤求菩提山護国寺・常在山如法寺…求菩提山護国寺は修験道場で、常在山如法寺は元々その末寺の1つだった。
13世紀頃から両寺は所領を巡って対立し、16世紀に大内氏の介入を招く。
戦国時代ライターkawausoの独り言
いかがでしたか?
僧兵と言うと延暦寺と興福寺、それに高野山や石山本願寺等が連想されますが、実際には、様々な宗教勢力が拠点を持って、戦国大名と抗争したり共闘したり、自らも戦国大名になったりと広範囲で活動していた事実が分かりますね。
戦国時代は、僧兵の時代でもあったと言えるでしょう。
参考:Wikipedia
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