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この記事の目次
塩に苦しんだのは馬のせい?
甲斐国に馬が多かった理由は、甲斐が度々、塩止めに苦しんだ事からも推測できます。どうしてか?というと、馬は人の10倍の塩分が必要で、他国よりも馬を多く飼育していた甲斐では、塩不足が起きやすく、他国もそれを見越していたと考えられるからです。
馬の数が多いなら、その中から軍馬になる馬も多いという事になりますから、他国よりも騎兵を編成するコストが掛からないという事にも繋がります。武田信玄は、ここに目をつけて、多くの騎馬を保有していたのではないでしょうか?
古くから馬を食べていた
甲斐に多くの馬がいた理由に郷土料理にも馬肉が使われている点があります。富士山に近い甲斐では、富士登山客の荷物を運ぶために多くの馬が飼育されていて、馬肉は入手しやすくそれが、郷土料理に取り入れられたのです。
また、馬というと馬刺しですが、どうして牛や豚は生で食べられないのに馬はいいのかというと、馬は体温が40℃ほどと高く、解体した後も細菌が繁殖しにくいからだそうです。
馬の産地である西上野を領土に加えた
現在の群馬県にあたる上野国の西上野を武田信玄は苦労の末に、箕輪城の長野業盛を倒し、永禄9年(1566年)から併合しています。上野国も、古くからの馬の産地であり、武田氏は西上野の国衆を傘下に加える事で、新たな騎兵を保有する事になりました。
こうして、武田氏は、それ以外の大名より、多くの騎兵を保有するようになった可能性があります。
騎兵の使い方が上手かった
日本の場合、大陸の蒙古兵のように、全ての将兵が騎乗している事はありません。騎馬兵は全体の10%もなく、それも、一枚岩ではなく、それぞれの豪族が少しずつ保有してそれらがまとまっていました。
騎兵の用途は、敵陣が崩れた時に、少数で突撃して敵を追い散らかす事です。つまり、負け戦では騎馬兵はあまり用がありません。
その為、広く情報収集し勝ち戦が出来る名将じゃないと、なかなか使い道を見出す事が出来ませんでした。
武田信玄は合戦が上手く、騎馬兵の突入を有効に活用できたので、敵の中に、武田=赤備えの騎馬隊という印象が擦り込まれたのではないかと思います。
武田騎馬隊が目立つのは、信玄の采配が上手く騎馬の出番が多くあったからで、それは取りも直さず、信玄が連戦連勝したという事なのです。
戦国時代ライターkawausoの独り言
どうして、武田というと騎馬なのかを様々なデータから検証してみました。
もちろん、信玄の騎馬隊采配の見事さもありますが、甲斐国は古くから馬の生育に向く土地で、山中の荷物の移動は坂に強い木曽馬が好まれたなど、甲斐国独自の土地柄も影響している事が分かりますね。
参考:Wikipedia
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