こちらは2ページ目になります。1ページ目から読む場合は、以下の緑ボタンからお願いします。
この記事の目次
雑賀鉢に見る異能の傭兵集団
雑賀衆と言えば、錆色で華美な装飾を排した雑賀鉢と呼ばれる兜でも有名です。当時、隆盛を極めた変わり兜と違い、雑賀鉢はどれも錆色で前立てなどもない、重厚な造りで大陸の兜の影響を受けているとも言われます。
決して装飾がないわけではありませんが、それは近寄らないと分らない細かい仕事であり、敵に見せて武勇を誇るという名目で造られているわけではなさそうです。
ここには実用重視のヘルメット的な発想と、個人の手柄うんぬんではなく、誰であれ敵を狙撃できればいいという傭兵のドライな割り切りが透けて見える気がします。きっと孫一が率いる傭兵団も、音もなく忍び寄り、敵を殲滅させる事に特化した機能的な戦闘組織だったのでしょう。
石山合戦が開始された事で反織田に舵を切る
さて、野田・福島城の戦いで三好方についた雑賀孫一ですが、この時にも織田方には、根来衆、雑賀、湯河、紀伊国、奥郡衆という鉄砲傭兵が参加しています。
戦いでは、数千挺の鉄砲がひっきりなしに火を噴き日夜天地も轟くばかりだったと、信長公記の作者、太田牛一は記録しており、鉄砲の総数では長篠合戦よりも多かったかも知れません。
ここで分るのは、雑賀衆と言っても決して一枚岩ではなかったという事です。雑賀にも三緘衆というグループがあり、三緘衆と他の雑賀は土地の境界を巡り、度々紛争を起こす犬猿の仲でした。
ここでもまだ、孫一は織田信長に対して個人的な恨みがありません。しかし、野田・福島の戦いの最中、それまで中立を保っていた石山本願寺が三好三人衆について、横合いから織田軍に攻撃を仕掛けた事で立場が変化します。
本願寺が信長に対抗した理由には、教団の本山がある石山本願寺の台地を信長が欲しがり、それを拒否する為だったとも言われます。後に大阪城が建つ石山は海運の要衝であり、防御にも適し、そう簡単に手放すわけにはいかなかったのです。
雑賀孫一の出身地、雑賀は浄土真宗の盛んな所で孫一も浄土真宗の門徒でした。当然、本願寺顕如が反織田で動けば、孫一も顕如を支える為に反織田になります。つまり、雑賀孫一が反織田になったのは本願寺が反織田に舵を切り、石山合戦が始まった時からでした。
因みに野田・福島城の戦いは、織田軍が優勢でしたが、本願寺の加勢により膠着状態になり、それに乗じて浅井・朝倉軍が挙兵して京都を窺う形成になったために、信長は三好三人衆と和睦し、引き分けとなります。
紀州攻めで織田軍を撃退
本願寺との全面戦争に突入した信長は、各地で頻発する一向一揆のゲリラ戦に遭遇します。しかし、信長は物量を活かし大軍を繰り出して各個撃破で一向一揆を鎮圧していきました。
天正2年(1574年)9月、織田軍は、長島願証寺の一揆を壊滅させ翌年9月には越前・加賀一向一揆を掃討。次の標的を紀州雑賀衆に定め、天正5年(1577年)2月13日10万の大軍を率いて出陣。織田軍の先導役は、孫一と仲が悪い、根来衆や雑賀三緘衆や太田党であり一定の地の利を得た上での進撃でした。
9月22日、泉州信達で織田軍は浜手と山手の二手に軍勢を分け紀州雑賀に攻め込みます。
浜手を攻めるのは、明智光秀、筒井順慶、丹羽長秀、滝川一益、蜂屋頼隆、細川藤孝、山手を攻めるのは、羽柴秀吉、荒木村重、佐久間信盛、別所長治、別所重宗、堀秀政、
このような織田軍の豪華メンバーです。
浜手軍は、雑賀衆の抵抗を受けながら、孝子峠から紀ノ川右岸の中野城へと進み、山手軍は風吹峠から南下して紀ノ川を渡り本拠地、雑賀城の東側、小雑賀川を挟んで陣を敷きます。
雑賀城の孫一は、すでに小雑賀川の底に無数の土瓶を埋めて準備を整えていました。そうとは知らない山手軍は、堀秀政が先陣を切り、数で押し切ろうと小雑賀川に殺到。たちまちのうちに、川底の瓶に足を取られて動けなくなり、そこに後続兵が突入して、身動きが取れない大パニックになります。
すかさず、孫一指揮する鉄砲隊が出撃し、堀秀政隊に一斉射撃を見舞います。掘隊は死傷者続出、川を渡れなくなった山手軍は川を挟んで、雑賀衆とにらみ合いとなりました。しかし、比較的に無事な浜手軍が雑賀の中野城を落とし、このままだと挟み撃ちが避けられなくなった孫一は考えた末、誓詞を出して信長に降伏を申し出ます。
本来の信長の性格なら、自分に散々に煮え湯を飲ませた孫一の首は確実に飛ぶ所ですが、信長は毛利軍の侵攻に備えるために忙しく、やむを得ず、孫一等の罪を赦免し退却しました。
孫一、その年の間に叛く
一度は和睦した孫一ですが、その年の夏、蓄積していた雑賀三緘衆に対して不満を爆発させ、8月16日に井の松原にて激戦が起きます。信長も、佐久間信盛を雑賀三緘衆の援軍に出しますが失敗、この時には雑賀孫一が勝利しました。こんなに仲間同士でも対立しているのに、いざ戦いとなると信長の大軍を退けるわけですから、孫一は非常に優秀な指揮官ですね。
第三次紀州攻めで奇跡が
5年間、織田信長は紀州に攻め込んできませんでしたが、天正10年(1582年)5月、息子の織田信孝に命じて極秘裏に3度目の紀州雑賀攻めを開始します。
信孝は、同年の4月まで高野山攻めに出陣、紀州背山城に在陣していましたが、呼び戻され、兵力14000人を堺に集結。丹羽長秀に先鋒で3000の兵を与え鷺宮道場を急襲させたとも、信孝自身が本隊を率いて鷺宮道場に攻め寄せたとも言われます。
この戦いの少し前、本願寺顕如は足掛け11年の戦いの末、天正8年に信長と和睦。大坂本願寺を退去して、紀州鷺森別院に退き、雑賀孫一等、雑賀衆に守られていました。
予想していない織田信孝の襲撃に対し、雑賀衆は200名足らず、それでも必死の防戦をし、孫一以下、雑賀孫六、的場源四郎、三井遊雲軒、坂井与四郎、関掃部守が満身創痍となって支えぬきます。
ようやく初日の攻撃を凌いだものの、明日はもう落城が免れまいという6月2日の夜、顕如上人は覚悟を決めて皆を集めて言いました。
「明日、信長勢が門前近く攻め寄せたならば、火を放ち御真影を焼き奉るべし。私もお供申します。皆さんには、これまで身命、妻子を捨て、よく助けてくれた事、誠にかたじけない。今宵は今生の名残、残る物語は安養浄土でゆるゆると語るべく再会を期しましょう」
尊敬する顕如の現世最後の説教に感涙する孫一と仲間たちですが、後世の私達が知る通り、1582年の6月2日未明、織田信長は本能寺で明智光秀に討たれこの世にいませんでした。
翌朝、6月3日には、本能寺の異変を知らされた織田軍は慌ただしく引き上げ、攻撃は中止されました。孫一は奇跡的に信長に勝利したのです。
この時、孫一は初日の戦いで足を負傷していましたが、喜びの余り足をひきずりながら立ち上がり、片足を挙げて日の丸の扇を掲げ踊り狂ったと伝えられています。強運に恵まれたとはいえ、圧倒的不利な状況を勝ちで締めくくれた雑賀孫一は、やはり反権力でロックな英雄でしょうね。
戦国時代ライターkawausoの独り言
今回は、部分的な解説になってしまった事をお詫びします。ただ、雑賀孫一は複数存在しただけで、実在しないという事はなく、信仰、そして自治都市だった紀州雑賀の自由と独立を守る為に戦った人であるというのは事実だと思います。
織田信長を跳ねのける事には成功したものの、雑賀は新たな天下人、豊臣秀吉によって蹂躙され服属、自治の歴史に終止符を打つ事になります。ですが、正面から絶対権力に立ち向かったロックな英雄の姿は、時代を越えて語り継がれているのです。
参考:Wikipedia 他
関連記事:【麒麟がくる】鉄砲担いで賞金稼ぎ傭兵集団雑賀衆とは?
関連記事:長篠の戦いの勝敗を決したのは鉄砲の数ではなく鉛と硝石だった