江戸三百年の泰平を築いた戦国武将、徳川家康。ところが戦国最期の成功者である家康の評判は、織田信長、豊臣秀吉に比較すると地味です。しかも、あくらつな手段で豊臣氏から天下を奪ったとして、狸親父という有難くないあだ名まで与えられています。
でも、そもそもどうして家康は狸親父なんでしょうか?
ただおとしめたいだけなら、牛親父でも豚親父でも良さそうなものですよね?
この記事の目次
狸親父のあだ名の理由 容姿
史実の家康は、でっぷりと太った肥満体型でした。家康もその体型を利用して、農夫の真似などをして周囲を笑わせていたそうです。野生の狸も全体的に丸っこく、狐のようなスマートな印象はありません。家康は容姿が狸のフォルムに似ていたので、狸親父と呼ばれたのです。
狸親父のあだなの理由 年寄り
デジタル大辞泉によると、狸おやじとは、年老いてずるがしこい男をののしっていう語。たぬきじじい。
と出ています。徳川家康は、若くして織田信長の盟友でしたが、信長、秀吉が障害になり天下取りのレースには遅れていました。
織田信長が天下を目前に本能寺で倒れたのが48歳、豊臣秀吉が日本を統一したのが54歳なのに対し、徳川家康が大坂夏の陣で豊臣秀頼を滅ぼしたのは73歳でした。
70代というだけでも結構なお年寄りですが、敵対する豊臣秀頼は、まだ20代の若さなので、余計にじじいぶりが際立ちます。この経験豊富な老人家康が、若く世間知らずな豊臣秀頼に無理難題を押し付けて、滅ぼしてしまうという図式は、まさに大辞泉の狸親父のイメージにぴったりです。
狸親父のあだ名の理由 善人顔して人を欺く
昔話の狸は見た目、丸っこく愛嬌がありどこか抜けていますが、油断していると人を化かしあざむきます。このように、表面はいい人のような顔をしておいて、裏では悪事をする人を狸親父と言ったりする事があります。
徳川家康の言いがかりとして有名なのは、方広寺鐘銘事件でしょう。
方広寺鐘銘事件とは、豊臣秀頼が再建した方広寺大仏殿の大鐘に「国家安康」「君臣豊楽」の銘文を刻んだ事に家康が激怒した事件です。家康は「これは家康の2文字を切って分断し、豊臣を君として楽しむという呪詛が隠されている」となんくせをつけ、銘文を起草した禅僧、文英清韓と片桐且元が弁明の為に駿府まで出向く事態になりました。
家康は弁明を受け入れず、豊臣家に対して国替えか、淀殿か秀頼の江戸下向、いずれかに応じるように強要し大坂冬の陣の引金になっています。ここまで家康の気分を害したのですから、方広寺の鐘は縁起が悪いと鋳潰されたかと思いきや、別に何ともなく現在まで伝わっているので、呪詛うんぬんは、全くの言いがかりだった事が分かります。
家康は大人しくしている豊臣家に無理やり戦をけしかける為に、ありもしない呪詛をでっち上げて被害者ぶって見せたのです。これは狸親父とあだ名されても仕方ありません。
狸親父のあだ名の理由 石田三成と対照的
関ケ原の戦いで家康の東軍に敗れた石田三成は、後世、佐和山の狐とあだ名されたそうです。狐はイメージ的にスマートで計算高く、狸より上手に人をだまし、陰険な感じがしますよね?
これは、有能だけど人の好き嫌いが激しく、人望が得られずに戦いに敗れた石田三成の雰囲気にマッチしています。つまり、三成が狐なら家康は狸と言う組み合わせで、家康のあだ名が狸親父になってしまった…という事かも知れません。
じゃあ狸より狐のあだ名がいいかと言うと、どっちも人を化かすので、いいあだ名ではありませんけどね。
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