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この記事の目次
50日間の休戦、李如松による平壌奪還
平壌に明軍が攻撃してきたことで、日本軍側は石田三成をはじめとする朝鮮奉行や秀吉の上使黒田孝高(官兵衛)らは、漢城に諸将を集めて評定を行いました。オランカイ遠征中の清正は参加できず、これが清正と三成が対立するきっかけになっています。
ここで決まったことは、秀吉の朝鮮入りの中止と年内の唐入り延期でした。そして8月29日に沈惟敬と小西行長との間で50日間の休戦協定が結ばれます。朝鮮王朝は反発するも明に押し切られる形で成立。
この間日本の諸将は朝鮮側を攻撃できず暇を持て余していたとの記録があり、一般的に清正が朝鮮で行ったとされる「虎退治」を、黒田や島津義弘ら諸将がこぞって行っていました。そして退治された虎を秀吉の元に送ります。
日本軍が虎退治を行っている間、明軍は日本攻撃の準備を着実に行っていました。それは明軍の名将・李如松(り じょしょう)で、私兵で構成されていた4万3000の部隊は精鋭軍です。休戦が明けた1593年に入ると、偽の使いを行長の元に派遣し講和の使者が来ることを伝えました。
これに喜んだ行長でしたが、日本側の使者が生け捕りにされ、戦闘が始まります。第3次平壌城の戦いは今までと違い、明と朝鮮連合軍が5万を超え、さらにフランキ砲と呼ばれる西洋式の大砲を用いて攻撃。小西軍は脱出するも追撃を受け敗退します。
小西軍は開城まで撤退。「くそ!明め。かくなる上は漢城で迎撃だ」と決意しました。1月18日に明軍は開城まで進出します。
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碧蹄館の戦い(へきていかんのたたかい)
明の指揮官・李如松 により平壌を奪われ、小西行長が撤退。大友義統は行長が戦死したと言う誤報を受けて戦線を離脱たために、日本軍が一時的に大混乱します。開城まで進軍した李は、ここで偵察隊を送りました。この時明の偵察隊は日本の偵察隊と戦闘し、明側が勝利します。
偵察隊は「日本軍の精鋭部隊は平壌で壊滅している模様、漢城には弱兵士か残っておりません」と報告。それを聞いた李は「これで余裕をもって漢城が奪還できる」と確信し、2万を25日に率いて出陣します。しかし日本軍はまだ軍勢を保っておりました。
日本側は総大将宇喜多秀家、先鋒大将小早川隆景と勢力を2分。明軍が来るのを待っていました。そして26日早朝から戦闘開始します。深夜から偵察していた日本軍の先発隊はは軍勢を分け、また軍旗を少なくして実際の兵力をだましました。そして 左斜面から明側の先鋒隊を奇襲。
これに混乱した明軍は撤退しました。日本軍は追撃します。つぎに連合軍の第二隊と遭遇。日本側も隆景の軍勢と入れ替わるも、押し返されます。これに勝機を見出して追撃をした明軍ですが、日本の別動隊が明側の後ろ側に回って反撃。このため逆に大混乱に陥ります。
今度は日本軍が李如松のいる本隊にせまります。この戦いでは李の親衛隊などが戦死するほど。敗れた明軍は壊滅的になり敗走します。これで日本軍の勝利となりますが、宇喜多秀家の本隊の戦闘参加を待たずに決着がつきました。
この戦いでは明側の被害が甚大。李自体は生き残って平壌に戻りました。「日本め、こんなに強いとは!ならば策を変えねばならぬ」と、結果的に日本軍の強さを知ることになります。以降積極的な攻撃を仕掛けなくなりました。そして講和の道を模索します。
和睦交渉の決裂
明軍の援軍を受けた朝鮮王朝は別の問題に悩まされました。それは軍糧が尽きてしまったのです。李如松の部下はそれを理由に撤退を進言。李は軍糧を調達できない朝鮮に対して「食料をとってこい!出来なければ撤収する」と怒り叱責します。やむを得ずほとんどの食糧を明に提供しました。
一方日本側も漢城の食糧貯蔵庫が焼かれたことで苦しくなり、双方で講和を模索します。こうして1593年4月に双方が次の条件で合意し、文禄の役は終了しました。
- 日本軍は朝鮮能王子たちを返還する
- 日本軍は釜山まで後退する
- 明軍は開城まで後退する
- 明から日本に使節を派遣する
ところがここでの使節は双方にとって捻じ曲げられたものでした。明側は皇帝の勅使に偽装して日本に派遣・日本側は秀吉に「詫び言」を伝えるものと報告します。また朝鮮は交渉の場にはおりません。講和に反対していた朝鮮王朝を無視した明側が一方的に行ったものです。
そのため日本軍が釜山にまで撤退したときに朝鮮側が「今こそ日本を追撃しましょう」と主張しますが、明は無視。逆に「日本軍に対して絶対に攻撃をするな!」という停止命令を出します。そして偽の明の勅使は名護屋城と秀吉に会い、秀吉は次の条件を提示しました。
- 明の皇女を天皇の妃として送ること
- 勘合貿易を復活させること
- 日本と明、双方の大臣が誓紙をとりかわすこと
- 朝鮮八道のうち南の四道を日本に割譲し、他の四道および漢城を 朝鮮に返還すること
- 朝鮮王子および家老を1、2名、日本に人質として差し出すこと
- 捕虜にした朝鮮王子2人は沈惟敬を通じて朝鮮に返還すること
- 朝鮮の重臣たちに、今後日本に背かないことを誓約させること
ここで双方の部下が偽の報告をしました。明王朝には「日本めが降伏いたしました」秀吉には「明が秀吉様に降伏した模様」との報告をします。やがて明の使節は秀吉と謁見。「秀吉に日本国王の称号を送る」と伝え、金印を送ります。
しかし自らの要求を受け入れられていない秀吉は「話が全く違う!許さん」と激怒し再出兵を決意。また明側でも「それは偽りであったな」と気づき、交渉担当の沈惟敬が処刑されました。
戦国時代ライターSoyokazeの独り言
朝鮮出兵は、秀吉の更なる野望と言うことで行われたものですが、さすがに無謀な計画。かつ長い戦乱が続いて疲弊していた部下たちにとっては本意ではありません。明側も含めて部下が偽りの講和条件を考え、それぞれのトップに報告したことからも頷けます。
そんな講和は、すぐにボロが出て決裂し再度の出兵になりますが、結果的に秀吉の死をもって終結。その様子を見た徳川家康は、二度と朝鮮に手を出すことなく日本国内をまとめあげ、平和な江戸の世を築き上げました。
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