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この記事の目次
豊太閤三国処置太早計とは?
豊太閤三国処置太早計とは、明征服を目標にした豊臣秀吉が、その準備大海として朝鮮国王が逃亡したことを受けて書かれた文書のひとつです。朝鮮王国とあっという間に武力で鎮圧した日本軍に対して秀吉が次なる妄想を記したものでした。
1592(天正20)年5月18日に秀吉が甥で関白だった豊臣秀次に対して発した朱印状です。25か条になる覚書。基本的な内容は、翌1593年の正月もしくは2月になれば秀次に対して朝鮮への出陣に対する細かい指図でした。
しかしその中には、秀吉がもし明を征服したときの壮大な計画が記されていました。内容としては、次の通りです。
- 明を征服したら秀次を大唐関白の職に任ずる
- 大唐都(北京)に遷都する
- 遷都の2年後には後陽成天皇を行幸できるようにする
- 天皇には北京周辺の十か国を進呈する
- 天皇が北京に移ったのち、日本の天皇として良仁親王か、その弟の智仁親王に即位してもらう
- 8月までに丹波中納言・羽柴秀俊(小早川秀秋)を出征させ、名護屋の留守居役か朝鮮に配置する
- 日本の関白は大和中納言・羽柴秀保か備前中納言の羽柴秀家(宇喜多秀家)のどちらかに任ずる
この妄想に近い記録は前田家に伝わり、4代藩主の前田綱紀が記した文書の中で、このタイトルが付きます。これは綱紀が冷静に「秀吉の早まった考えだな」という意味で「早計」とつけました。また前日に名護屋城で祝宴があったので、秀吉が酔った勢いで書いた可能性も指摘しています。
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八道国割とは?
日本軍は開城を陥落させると、軍議を行い改めて朝鮮王国の制圧目標を決めました。これは「八道国割」と呼ばれるものです。朝鮮半島にある地域区分「道」ごとに大名を任命し彼らに攻撃させるように決定しました。具体的には次の通りです。
- 平安道(半島西北部・平壌付近)一番隊小西行長ほか
- 咸鏡道(半島東北部)二番隊加藤清正ほか
- 黄海道(平安道の南)三番隊黒田長政ほか
- 江原道(咸鏡道の南)四番隊毛利吉成ほか
- 忠清道(京畿道の南・大田付近)五番隊福島正則ほか
- 全羅道(半島西南部・済州島付近)六番隊小早川隆景ほか
- 慶尚道 (半島西南部・釜山付近)七番隊毛利輝元
- 京畿道(黄海道と忠清道の間・ソウル付近)八番隊宇喜多秀家
この決定によりさっそく一番隊が平壌に向けて進軍し、最終的に三番隊と合流して占領します。次々と国王・宣祖は遼東との国境である義州まで逃亡。そこで明の救援を依頼します。二番隊も同様に進軍し咸興を制圧。さらに会寧では王子らを捕縛しました。
四番隊は、江原道の各拠点を制圧。日本に準じた身分制度の導入や国土調査を行います。同じように五番隊、六番隊、七番隊らも作戦を実行に移し、日本軍優位のまま占領体制が進みました。ちなみにこの時点による八番隊および九番隊についての詳細な記録は残っていません。
朝鮮水軍の逆襲
陸上では圧倒的な軍事力で一気に全土を制圧「八国国割」という占領政策まで推し進めた日本軍。このまま一気に明国へ侵攻するような勢いです。しかし朝鮮軍もこのまま引き下がることなく抵抗をつづけました。最も抵抗した勢力は朝鮮水軍です。
李舜臣が中心となって活動した水軍は、亀甲船と呼ばれる軍艦を率いており、5月から7月にかけて海上の日本軍と頻繁に激突。そして多くの戦いでは地の利を生かした李率いる朝鮮水軍が日本水軍を翻弄し撃破していきました。記録に残っている主な戦いは次の通りです。
- 5月7日、玉浦の戦いで日本輸送船団15隻を撃破。
2. 5月8日、泗川海戦(しせんかいせん)日本軍12隻を撃破。
3. 6月2日、唐浦の海戦で20余隻の船団を攻撃し、来島通之が戦死。
4. 7月8日、閑山島海戦で63隻撃破、船を失った責任を取り海賊出身の真鍋左馬允が切腹。
5. 7月10日、安骨浦海戦にて日本艦隊を攻撃、日本側が李の誘いに乗らず、双方撤退。
7月14日になり閑山島海戦での敗退を知った秀吉は、積極的な海上決戦を禁止します。代わりに水陸共同による沿岸迎撃作戦の指示を出しました。この戦略は成功し、李の水軍攻撃がそれまでのような効果が出ません。そして出撃も減少し日本軍の被害を食い止める結果となりました。
ちなみに李は、この後行われる慶長の役の終結時に、日本への撤退を試みた島津義弘と激突。露梁海戦(ろりょうかいせん)が行われた結果、他の朝鮮水軍の将軍と共に戦死しました。
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明軍の参戦とオランカイ侵攻
7月16日、朝鮮王朝からの救援依頼を受けた明軍はついに朝鮮王国内に突入、日本軍と戦います。最初は明軍副総裁・祖承訓(そしょうくん)率いる遼東の明軍は5000でした。そのまま日本軍のいる平壌に侵攻しますが、第一次平壌城の戦いは一番隊の小西行長が迎えて撃退します。
「単なる倭寇の親玉だと思っていた秀吉と言う奴め侮れない」と、敗戦を知った明朝廷は、日本軍との講和を模索。そこで沈 惟敬(しん いけい)を使者に立てます。それとは別に29日には朝鮮軍1万が平壌を攻撃(第二次平壌城の戦い)が勃発しました。しかしこれも行長が撃退に成功します。
さて明軍と日本軍が衝突している間、二番隊の加藤清正は別の戦いを繰り広げていました。これはオランカイ侵攻と呼ばれているもので、明の東北で勢力を保ちつつあった女真族への攻撃です。清正は彼らの戦力を試す目的で、朝鮮王国の北方にある彼らに侵攻しました。
このときなぜか敵である朝鮮軍も加わります。それは朝鮮王朝が長年彼らの侵攻に苦しんだからでした。清正は一時城を奪うことに成功してましたが、女真族は強く激しい報復に耐え切れず、撤退します。そして秀吉に「オランカイ経由で明を攻めるルートは不可能である」と報告しました。
ちなみに女真族とはかつて中国宋を脅かしていた金国の末裔で、モンゴルによって滅ぼされた後、バラバラだったものを、ヌルハチにより統一されました。この勢力が後金(アイシン)国を建国し、後に清国となって中国を支配、朝鮮を属国にします。
それまでは明が女真族を分散させてコントロールしていました。しかし秀吉の朝鮮出兵により明側が動けない隙にヌルハチが分散していた勢力を固めて建国に成功したともいわれています。攻撃を受けたヌルハチは日本軍への反撃支援を明と朝鮮に申し出ますが、いずれにも断られました。
その理由として当時はまだヌルハチの女真族を「野蛮人」と、両国が思っていたからです。
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