こちらは2ページ目になります。1ページ目から読む場合は、以下の緑ボタンからお願いします。
この記事の目次
孫亮が親政を開始、孫綝は参内しなくなる
しかし、幼帝はいつまでも幼帝ではありません。西暦257年、14歳になった孫亮は正殿に出御して大赦を実行し、自ら政務を執るようになります。以後、孫亮は父である孫権と自分では、あまりにも権力の強さが違う事に不満を持ち、孫綝に対しても反対・反論が増えていきました。
孫綝は暗殺を警戒し、建業に帰還した後も宮廷に参内しないようになります。そんな中、孫亮は15歳以上18歳以下の兵士の子弟を選抜し近衛軍を組織して、御苑の中で演習を繰り返しました。
これは取りも直さず、いつか孫綝を排除して、自分の権力を担保するための布石のように見えますね。孫亮は決して暗君ではなかったようです。
孫綝誅殺を画策するが失敗し廃位
一方の孫綝は、魏の諸葛誕の乱に乗じて兵を出し寿春を手に入れようとしますが、結局は失敗、自身の威信を失墜させます。さらに国内でも、会稽郡南部や鄱陽郡と新都郡でも民衆が反乱を起こし、重臣の魏への亡命も相次ぎました。いよいよ、孫綝を排除すべき時と考えた孫亮は、西暦258年、妻の父、全尚、全公主(孫魯班)将軍の劉丞とクーデターを謀議をします。
計画は、近衛都督である全尚が密かに兵士と馬を完全武装し、孫亮は自ら宿衛の虎騎、左右の無難兵を率いて孫綝の屋敷を包囲する。そして詔書を作成して専横者孫綝を自ら討つと宣言すれば、孫綝の兵もあえて逆らわないだろうというものでした。
ところが、とんでもないジョーカーが孫亮の謀略仲間に潜んでいました。妻の父である全尚が、子の全紀からクーデターの具体的な内容を聞かされた後、何を思ったのか、孫綝の従妹である妻に全てをしゃべったのです。
妻は当然、孫綝にこの事を密告。驚いた孫綝は先手を打って宮殿を包囲し、
「皇帝は精神を患い、政務が執れない」として孫亮を廃位して会稽王に落として流罪にします。全尚も屋敷で包囲され零陵に流罪、さらに全公主も豫章に流罪とされました。宮廷の籠の鳥で、ちゃんと人間を見る目が無かった事が孫亮に災いしましたね。
異母弟の孫休に追われ自害
しかし、孫亮の悲劇はこれで終りませんでした。孫亮を廃位した孫綝は、孫亮の異母兄の孫休を擁立しますが、彼は慎重な人物であり、孫綝を十分に油断させた上でクーデターを起こし殺害する事に成功します。
ところが、260年、会稽王の孫亮が再び皇帝になるであろうという流言が飛び交い、また孫亮が巫女に祈祷をさせて孫休を呪い殺そうとしているという告発がありました。
孫権に正式に選ばれた正当な皇帝である孫亮に対し、簒奪者の孫綝に便宜的に選ばれただけの孫休は正当性に不安を覚え、会稽王を剥奪して孫亮を侯官侯に降格します。
孫亮は、自分が生きている限り孫休の猜疑心は止まず、最期には命を取られると絶望し、任地に向かう途中で自殺します。17歳の若さでした。また、別の記録では、孫休により毒を盛られたという記録もあるようです。
関連記事:激動の時代を生きた三代目皇帝・孫休は名君か?それとも暗君?
孫亮年表
243年
孫権と寵妃潘淑との間に7男として生まれる
250年
皇太子として擁立
251年
母が孫権の皇后となる
252年
孫亮が2代皇帝として9歳で即位
母が252年2月に暗殺、4月に孫権が崩御。
後見人は諸葛恪。
253年
正月、全尚の娘を皇后にする
同年10月合肥新城の敗戦後、
独裁がひどくなった諸葛恪を孫峻が誅殺し丞相となるが
すぐに諸葛恪同様の独裁を開始。
254年
孫峻暗殺計画が未遂
孫峻の独裁が強まり、
王族による暗殺計画が相次ぐ
255年
毌丘倹・文欽の乱が起きる
次第に求心力を失う
256年
孫峻病死
諸葛恪に殴られる夢を見て精神に変調をきたし急死。
9月、孫峻の従弟、孫綝が後継者となる。
4月、14歳の孫亮は、自ら政務を執る事を宣言して大赦。
以後、孫綝との対立が激しくなり孫綝は参内しなくなる。
5月、寿春で諸葛誕の乱が発生。
孫綝は寿春を包囲する魏軍を攻撃するが兵糧が尽きて撤退。
258年
孫綝の暗殺を企むが未遂
全尚、全公主、劉丞等と謀議を重ねるが、
全尚が孫綝の従妹である妻に計画を暴露し妻が孫綝に密告。
孫綝が逆に宮殿を包囲し孫亮は捕らえられて廃位され、
会稽王に格下げされて流罪。全琮、全公主も流罪。
260年
孫休に嫌疑を掛けられ自殺
孫亮は呪詛とクーデターの疑いを掛けられ会稽王を剥奪。
人生に絶望し自殺、17歳。孫休の毒殺説もある。
三国志ライターkawausoの独り言
決して無能ではない孫亮ですが、豪族の寄せ集めである孫呉政権で、僅か9歳で即位した時点で、操り人形になる運命はほぼ確定していたと言えます。
その後、16歳にしてやっと権力を取り戻せるチャンスを掴みますが、妻の父がクーデター計画を妻にバラし、その妻が孫綝の従妹というお粗末さで案の定密告されて、逆に逮捕されて廃位され全てが破滅します。
もう少し人選がまともなら、孫綝を排除し、ハイティーン皇帝として独立心旺盛な孫呉の豪族相手にある程度奮戦したかも知れませんが、廃帝となった孫亮に、二度とチャンスが巡る事はなく、異母兄の孫休に恐れられ、自殺を選ぶしか道はありませんでした。
参考文献:正史三国志
関連記事:孫呉の第2代皇帝・孫亮は「なにかできた」か?「なにもしなかった」か?
関連記事:孫亮は皇帝になっても何にもできなかったってホント?