戦国時代の中期に日本にやってきたイエズス会の宣教師たちキリスト教の布教の為に、日本の権力機構を研究した彼らが、最も戸惑ったのは天皇の存在でした。
一見、全く無力な存在に見え、簡単に倒せそうに見える天皇が、どうして庶民に崇められ、権力者を服従させているか理解が困難だったのです。外国人であるイエズス会宣教師が見た天皇とは、どんな存在だったのでしょうか?
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天皇に失望したザビエル
イエズス会が最初に得た天皇についての情報は、日本人アンジローからの聞き書きでした。
それによれば、日本には王(天皇)という存在と、その王が全責任を委任した御所(幕府)があり、天皇は御所の行動を制限しないが、御所が悪だくみをした時には、その権力を取り上げ、場合によっては首を獲る事があるという日本における最高の権威者の姿でした。
ザビエルは、アンジローの情報通りなら、天皇の許可を得ればキリスト教布教はスムーズに進むと考え京都に入りますが、現実には京は荒れ果て、王も御所も名ばかりの存在であると知って失望。10日余りで京都を去り、山口の戦国大名、大内義隆に天皇に贈るはずの献上品を与え布教の許可を求めています。
イエズス会は、天皇に接触しても布教にプラスにならないとして、その後しばらく天皇についての情報が影をひそめるのです。
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伴天連追放の女房奉書で再び天皇に注目
ところが、影響力などないと高を括っていた天皇にイエズス会が驚愕する事件が起きます。永禄8年(1565年)時の正親町天皇が、三好義継の要請を受けて、伴天連追放の女房奉書を出したのです。
女房奉書とは、天皇や上皇の意向を女房(女官)が仮名書き書にして当該者に対し発給する奉書の事で非公式なものでしたが、効果は絶大であり、イエズス会は、京都で様々な妨害を受けて滞在が不可能になり宣教師ガスバル・ヴィレラは河内国飯盛へ、ルイス・フロイスは同じく三箇へ逃亡してしまうのです。
しかし、間もなく織田信長が上洛して職豊時代が開始され、伴天連に対する京都滞在が解禁されると、再び、イエズス会の天皇についての記述が減少しました。
絶対権力者豊臣秀吉の登場で天皇観に変化
その後、イエズス会は天皇について、「本来の真の国王」と説明する程度に留まりますが、豊臣秀吉が関白に就任すると、その認識が大きく変化します。イエズス会は秀吉が天下の君主として自ら単独の支配者になろうとせずに、天皇から関白の叙爵を受けて、権威と栄誉を得た事を重視しました。
名誉のみの国王である天皇は、称号を叙爵する事で、次の権力者に安定した力を保障するものとして、天皇の本質を見ようとしたのです。
本当に天皇が名誉だけの無力な存在であれば、日本の歴史に出現した権力者の中でも特に強力な権力を持つに至った豊臣秀吉が、天皇にひざまづく必要はないはずです。
ところがそうではなく、逆に武家として五摂家の持ち回りであった関白の地位まで望み、それを天皇に許された点にイエズス会は、天皇の持つ権威と栄誉を与える力を見出したのでした。
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天皇を国王かつ唯一の主権者と書いたルイス・フロイス
秀吉と言う超強力な権力者の登場により、かえってイエズス会は天皇の力を再認識します。例えば、ルイス・フロイスは「日本史」の序文で、天皇を
当(日本)六十六カ国全体の最高君主であり、国王かつ主権者はただ1人であって、これを王、もしくは天皇、または内裏と称する
と、高く評価するに至ります。
もちろん、ルイス・フロイスは天皇にはろくな軍事力も政治力も存在しない事は百も承知でしたが、そうでありながら、どんな権力者もその地位に代わる事が出来ず、ただ権力を代行する事しか出来ない事に日本権力の源泉としての天皇の姿を見たのでしょう。
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