呉の大黒柱孫権の晩年の失敗の中でも最高峰にあるのが二宮の変です。
しかし、三国志演義では(呉みてーな地味な国の内紛にページは割けねえよカットだカット)と断腸の思いで割愛されているせいか、あまり知名度がないマイナーな出来事として、詳しくは知らない三国志ファンも多いでしょう。
そこで今回は初心者でも分かるレベルに、二宮の変を分かりやすく斬ってみます。
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切っ掛けは孫登の死
孫権は、自分の後継者を早めに長男の孫登に決定していました。しかし、西暦241年に皇太子の孫登が33歳で病死します。
この時、孫登は当時、孫権が寵愛していた王夫人の子の孫和を自分の代わりに後継者とするように孫権に遺言しました。哀しみに暮れる孫権ですが、孫登の遺言通りに、孫和を皇太子に指名します。
これで済んでいれば二宮の変は起きなかったのですが、ここから孫権は不可解な行動をします。
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孫和の異母弟の孫覇を魯王とする
孫和を皇太子に立てた後、孫権は孫和の異母弟の孫覇を魯王に封じます。そして、孫和も孫覇も平等に扱いだしたのです。
これにより、呉の家臣の中に、もしかして孫覇様が後継者になるのではないか?と考えるものが出て、孫覇の派閥(魯王派)が誕生。皇太子は孫和であるべきとする孫和派(南宮派)との間でいざこざが発生しました。
孫権が2つの宮殿を建て派閥を分離 二宮の変勃発
孫権は、孫和派と孫覇派の対立を知ると、孫覇にも孫和同様の宮殿を建て、2つの派閥を遠ざける措置を取ります。しかし、これは逆効果でした。
遠ざけられた事で、孫和も孫覇も相手の考えが分らなくなり、取り巻きの派閥の考えに影響を受けるようになります。特に孫覇は焚きつけられて、孫和の廃嫡まで考えるようになり、呉は、二宮の派閥がお互いを讒言する混乱状態に陥ったのです。
それもこれも、元はといえば、孫権が孫覇と孫和の扱いを平等にしてしまったせいで、孫覇派が勘違いをしたせいなのは明らかでした。まったく、あのアル中ヒゲダルマは本当にろくな事をしません。
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丞相不在、孫魯班と王夫人の対立も火に油を注ぐ
二宮の変の最中、243年、19年間も丞相を務めた顧雍が76歳で死去します。後任の丞相は陸遜と決まりますが、陸遜は荊州統治の任を解かれないので建業に入れず、二宮の変を強力なリーダーシップで調停する人物は不在となりました。
おまけに、孫和派と孫覇派の戦いには、孫和の母王夫人と、孫権の娘で孫覇を推す、孫魯班の女の対決も絡んでいます。孫権の後継者をどちらが継ぐかで、2つの派閥の生死は決まります。
何としても勝たねばならない状況で抗争は熾烈化、孫権は二人の対立に気づいて両派閥の往来を禁止しますが、すでに手遅れでした。
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