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成都陥落
蜀の主力は魏に抵抗するために剣閣に集中していました。そのため成都を防衛することは到底不可能で、君主劉禅は降伏を決意しました。
劉禅は成都に入場した鄧艾に対し、太子、諸王、重臣をひきつれ、更に自分に縄をかけ、なんと棺桶まで用意して出頭しました。
鄧艾はそれに対して彼らの縄を解き、棺桶も焼き、彼らを許したのです。ここに劉備が起こし、諸葛亮が守った蜀の国は消滅したのでした。鄧艾は兵による略奪を禁じ、降伏したものも元の職に戻したので、蜀の民に尊敬されたといいます。
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成都での振る舞いがあだとなる
鄧艾は蜀を滅ぼした功により、2万戸を加増されました。しかし、その地で勝手に蜀の旧臣を将軍に任命したり、己の功を自慢したりと独断専行の振る舞いが目立つようになり、周囲に疎まれることになります。
これがあだとなり、蜀の攻略に失敗した鐘会に讒言され、命を落とすことになるのです。
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三国ライターみうらの独り言
物事をなすには決断力と勇気が必要ということが鄧艾の成都攻略から学べますね。ただ、成功したとしてもそれを過剰に自慢したりしないようにしたいものです。
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