馬謖の山登りは王平が原因だった!陳寿が隠した真実?




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山頂に陣を敷いた馬謖

 

三国一のアルピニスト馬謖(ばしょく)、そんな皮肉が1800年経過しても流布するほど、街亭(がいてい)の失陥は蜀ファンに取って痛い出来事でした。しかし批判される一方で、どうして馬謖が麓ではなく山頂に陣を敷いたのか?

 

kawauso

 

その動機については多くの憶測がなされるものの決定的な答えは出ていません。もちろん史料が限られる中で、馬謖の本心など永遠に謎なのかも知れませんが、最近、馬謖の山登りについての考察が登場してきました。

 

それはなんと、馬謖は王平の裏切りを恐れて山頂に布陣したというのです。




馬謖の山登りは王平が原因だった!ザックリ解答

朝まで三国志2017-80 kawauso、禰衡

 

では、忙しくて、記事をゆっくり読んでいられない方向けに、馬謖の山登りは王平が原因だったという説をザックリと解説しましょう。

 

1 街亭周辺は異民族が多く住み蜀・魏両国に日和見した
2 王平(おうへい)が馬謖の副官なのは街亭付近に住んでいたから
3 魏の張郃(ちょうこう)は巴西の板楯蛮(ばんじゅんばん)をまとめ街亭に移住させた
4 王平は街亭の板楯蛮を説得して蜀につけようとし失敗。
5 馬謖は王平が裏切る事を恐れ山頂に布陣した。
6 張コウは麓の水源を断ち馬謖(ばしょく)軍は総崩れで逃走。
皮肉にも王平が地元民として踏ん張った
7 陳寿(ちんじゅ)は父が馬謖の副官なので街亭の戦略的失敗を
馬謖個人の戦術的失敗とし問題の矮小化を図った。

 

ザックリまとめると、馬謖は王平が板楯蛮出身の異民族であるために、張郃に寝返るのではないかと怯え、諫めも聞かず防御力の高い山頂に布陣したという事です。さて、以後は、それぞれの項目をより詳しく解説しましょう。

 

関連記事:もしも、馬謖が劉備に排除されていたら北伐はどうなる?

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王平は何者?

王平は四龍将

 

王平は字を子均(しきん)と言い、巴西宕渠(とうきょ)の人です。西暦215年、曹操(そうそう)張魯(ちょうろ)討伐の為に漢中に侵攻、張魯は一度は巴に逃げた後に曹操に降伏します。この時の巴には杜濩(そうかく)朴胡(ふこ)という板楯蛮の支配者がいて、曹操に巴西郡太守や巴東郡太守に任命されています。

 

板楯蛮(異民族)

 

ところが間もなく巴郡は劉備(りゅうび)の攻撃を受けて敗北、曹操は漢中を完全放棄する前に、杜濩・朴胡等、板楯蛮を移動させました。王平も杜濩・朴胡と共に洛陽に向かって校尉の地位を与えられたとされます。

 

三国志の武器 虎戦車 諸葛亮孔明

 

しかし、『曹魏の関隴領有と諸葛亮(しょかつりょう)の第一次「北伐」』を書いた並木淳哉氏の指摘によると、王平等が向かったのは洛陽ではなく街亭に近い略陽であろうと指摘しています。

 

長安(俯瞰で見た漢の時代の大都市)

 

検索してみると略陽は漢中市に位置する県で、街亭古戦場がある天水市奉安県に近く、板楯蛮は、この広大な土地に点々と他の異民族と共に入植していたと考えられます。

 

蜀の皇帝に即位した劉備

 

王平は、街亭に移住後、西暦219年の定軍山(ていぐんざん)の戦いを含む漢中攻防戦のいずれかの時に劉備軍に降伏し、牙門(がもん)将・裨将軍に任命を受け、以後は死ぬまで蜀に忠誠を尽くしました。

 

関連記事:【諸葛亮の第1次北伐】諸葛亮必勝法と敗因とは?

関連記事:三国志時代にもダジャレがあった?蜀の王平(おうへい)は異民族から「ヘイ!!OH様」と呼ばれていた

 

街亭の戦いで王平が馬謖の副官になったのは?

馬謖の副将として配属される王平

 

街亭の戦いの際、馬謖が指揮官であり王平が副官だった事はよく知られています。ですが、西暦219年前後に蜀に降ってから、ろくに手柄が無い王平が、どうして馬謖の副官のポジションを与えられたかも考える必要があるでしょう。

 

孔明

 

それはつまり、諸葛亮が王平に街亭付近の板楯蛮を扇動して味方につける事を期待したから、と考えるのが無理が無い動機ではないでしょうか?

 

手柄を立てる張コウ(張郃)

 

諸葛亮の期待を受けた王平ですが、街亭周辺の板楯蛮の取り込みには失敗します。そして、馬謖や王平にとって最悪の情報がもたらされます。街亭に向けて魏の張郃が出撃したという情報がもたらされるのです。

 

関連記事:馬謖が山上に布陣しなければ第一次北伐は成功したの?

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【孔明没後も続く!はじ三三国志演義全史】
全訳三国志演義

 

板楯蛮の親玉、張郃が街亭に出撃

張コウ 張郃

 

どうして、張郃の出撃に馬謖や王平が慌てたのか?

 

それは、巴郡で劉備の攻撃を受けた板楯蛮を収容して略陽に移送した魏の将軍こそが張郃だったからです。特に馬謖は張郃の出撃にパニックになります。

 

王平の街亭付近の板楯蛮扇動は失敗におわり、そこに王平や巴郡板楯蛮の元の上司である張郃が出撃してきたのですから当然です。何より馬謖が恐れたのは、目の前の王平が張郃に寝返る事でした。

 

馬謖の山登りに反対する王平

 

王平は諸葛亮に命じられたように街亭の麓に陣を敷いて水を断たれないように守るべしと強く諫言しますが、王平を信頼していない馬謖は耳を貸さず、もっとも防御力がある山上への布陣を決断しました。

 

関連記事:張郃はどうして張飛に負けても処罰されなかった?

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戦うどころではなかった馬謖

敵に囲まれる馬謖

 

山上に布陣した馬謖ですが、疑心暗鬼に駆られ、もう戦うどころではありません。そして、張郃軍に麓を取り囲まれ水を断たれると、大敗走を開始しました。

 

馬謖の陣形に笑う張コウ

 

馬謖には張郃軍のみならず、麓の山川草木(さんせんそうもく)全てが敵に見えたかも知れません。味方を見捨て逃げる馬謖と幕僚に蜀兵は士気を失い総崩れしますが、地元民である王平だけは敵味方を冷静に見分けて踏みとどまり、千人の決死隊と張郃軍を一定程度、足止めする事が出来ました。

 

馬謖の失態は命令無視以上に、張郃サイドに王平も含めた板楯蛮が寝返り、自分に襲い掛かるのではないか?という恐怖心によるものだった可能性があります。

 

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