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この記事の目次
ピータールー事件
国内では議会政治が定着したものの19世紀初頭の議会は地主貴族が多数を占め政治は地主貴族の意向が反映されました。1815年ナポレオン戦争の終結で大陸からの安い穀物の輸入が再開されると、穀物価格が下落し地主貴族がダメージを受けます。
そこで当時政権を握っていたトーリー党は、小麦の価格が1クォーター80シリング以下の時は小麦の輸入を禁止する穀物法を制定しました。これは大地主の利益を守る名目の保護貿易であり、その為に穀物価格が高くなって消費者である都市住民や労働者の生活を圧迫。
1819年にはマンチェスターで8万人の労働者が集まり選挙法改正とともに穀物法反対を唱える大集会が開かれますが、政府は警察力で弾圧しピータールー事件が発生しました。
地主階級が保護貿易を望む一方で、産業革命を経て形成された産業資本家の中には自由貿易主義を主張する声も強くなりました。理由は穀物法で輸入が制限されると報復措置で工業製品の輸出が阻害されるようになるからです。
こうして資本家は自由貿易を主張し、都市住民は選挙法を改正して、庶民にも選挙権を与えるように要求。圧力を受けたホイッグ党のグレイ内閣は選挙法改正に踏み切り1832年には第1回選挙法改正が議会を通過します。
資本家対労働者の争い
改正により、腐敗選挙区など中世以来の弊害が取り除かれ産業資本家が選挙権を得ますが、労働者の選挙権は認められませんでした。こうして19世紀前半までの地主貴族対産業資本家という対立軸が産業資本家対労働者という図式に転換し、ヴィクトリア時代には、それが明確になり参政権を求める労働者は普通選挙を求めてチャーチスト運動を組織します。
1867年の選挙法改正で都市労働者に選挙権が認められ、1884年にはグラッドストン内閣が第三回選挙法改正をおこない農業と鉱山の労働者にも選挙権が与えられました。最終的にイギリスで男子普通選挙が実現するのは、1918年、婦人参政権は1928年の事です。
産業資本家の社会進出により、イギリスでは自由主義改革が進み、審査法の廃止、カトリック教徒解放法の宗教的差別の解消、1833年の奴隷制の廃止、東インド会社の商業活動の停止、1846年穀物法の廃止。1849年の航海法廃止と保護貿易政策の撤廃が相次ぎます。
1833年には労働者保護法である一般工場法が制定され、自由貿易主義に基づいた海外発展が進んでいきました。これは、イギリスの経済力が圧倒的に強く、国内法により産業を保護しなくて済んだ事が影響しています。
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独占資本と帝国主義
1760年代から本格化した綿工業中心の産業革命は促進し、19世紀には工場制機械工業が普及。マンチェスターやバーミンガムなどに工業都市が発展し、リバプールは工業製品の輸出港として繁栄しました。
1840年代には鉄道が急速に普及、蒸気船の普及と共に交通革命が起き産業の重点は、蒸気船や鉄道、工業部品を産み出す重工業に移行します。国内では市場が開拓され尽くした結果、企業の淘汰が始まり体力のない企業が資金力のある企業に吸収されていきました。
同時に供給の飽和による経済の深刻な不景気である恐慌も発生するようになり、倒産した企業が生き残った企業と合併されていきます。また、綿工業のような軽工業と違い重工業は必要となる資本が大きく、従来の商業資本はお金を貸し出す金融資本に支配されていき、独占資本がイギリス国内に幾つも誕生。
それがイギリス政府と結びついて1870年代には未開拓の市場を世界に求めて帝国主義の時代に入りました。その象徴が1875年のディズレーリ内閣によるスエズ運河会社買収であり、イギリスはさらに露土戦争に介入し、1878年のベルリン条約ではキプロス島の管理権を獲得し西アジアからインド一帯を支配する拠点とします。
インド支配の完成
18世紀後半より支配を固めたインドではセポイの乱などの大反乱を鎮圧してインドの植民地支配を完成。1877年にヴィクトリア女王を皇帝とするインド帝国を成立させました。
これに対し、インド国内では反英闘争が本格化していく事になります。ただ、自由貿易主義の理念からは、植民地を拡大するとコストが掛かるばかりなので、むしろ植民地を独立させて、経済を活性化し自由貿易に徹して利益を大きくしようと考える植民地不要論も存在しました。
しかし、帝国主義列強の世界分割競争からイギリスは離脱する事が出来ず、植民地支配を強化、拡大する方向に向かいます。同時に、経済格差が大きい国内政治に対する国民の不満、増大する福祉予算の確保。そして国民国家として高揚するナショナリズムを満たす手段としてイギリスは植民地獲得に邁進する道を選択する事になりました。
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拡大する植民地とドミニオン
19世紀末には、エジプトのウラービーの戦い、スーダンのマフディ教徒反乱の鎮圧、ケープ植民地によるブール人の国への侵略など植民相ジョセフ=チェンバレンを中心に帝国主義政策を展開。
1898年にはフランスとファショダ事件、1899年から1902年の南アフリカ戦争を引き起こし西アジアではトルコ、イラン、アフガニスタンに進出してきたロシアと対立し、1838年以降アフガニスタンに侵攻してアフガン戦争を起こして苦戦しつつも1880年アフガニスタンを事実上の保護国としてインド方面へのロシアの進出を阻止します。
東アジアでは、日清戦争で日本に敗北し弱体化が明らかになった清朝に対して、イギリスは列強と共に中国を分割、威海衛と九龍半島を租借、1899年にはクウェートを保護国としました。
帝国主義を進めていく一方でイギリスは、前世紀から続く白人入植地については自治を認める方向に転じ、1867年のカナダ以降、オーストラリア、ニュージーランド、南アフリカ連邦などに自治領(ドミニオン)としての独自政府を認めていきます。
同時にドイツなどと帝国主義的な対立が強まると、自治領との結束を強めるために1887年の第1回以降、植民地会議を開催していきます。
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