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この記事の目次
パックス・ブリタニカの終焉
イギリスの帝国主義は、先進的工業力と広大な植民地を基盤として原材料を購入してイギリスで加工し、再び植民地で売りさばく形で繁栄していました。しかし、19世紀の中期になると産業革命を進行させたドイツとアメリカがイギリスに追いつくようになり、イギリス独占資本を上回る巨大な独占資本が両国で誕生。
イギリスはおびやかされ19世紀の末には工業生産世界一の座をアメリカに奪われ「世界の工場」の地位から没落します。ただ、イギリスは植民地からの富の蓄積による金融と優勢な海軍力を利用した海運業で繁栄し、なおも世界経済に大きな地位を占めていました。
イギリスは帝国主義的植民地膨張の世界政策として、ベルリン、ビザンティウム、バグダットに鉄道網を広げる3B政策を掲げるヴィルヘルム2世のドイツ帝国に対し、3C政策(カイロ、ケープタウン、カルカッタ)により植民地支配を維持しようとします。
イギリスはすでに1902年にロシアのアジア進出を警戒し、日英同盟を結んで単独外交を放棄していましたが、ドイツの台頭に対しても1904年には英仏協商、1907年には英露協商を締結して三国協商を結成。
ドイツ、オーストリアを軸とする三国同盟との勢力均衡を図りますが、これによりイギリスはバルカン問題を抱えるオーストリアとロシアの対立に巻き込まれる事になります。それはイギリスの繁栄を終わらせる第1次世界大戦勃発の序章となりました。
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社会運動と労働党の結成
選挙制度は1867年の第2回改正で都市労働者に、1884年の第3回改正で農村労働者に選挙権が拡大。労働者の大半は選挙権を獲得します。一方で資本主義の独占進行に伴い労働者に対する搾取は厳しさを増し、その中で労働運動にマルクスの社会主義も影響を及ぼしはじめました。
1884年、少数のインテリ青年が設立した社会問題解決を研究する団体を母体にウェブ夫妻がフェビアン協会を設立。さらに、1893年にはケア=ハーディが独立労働党を結成します。独立労働党には、労働組合などの組織が加わり、1900年に労働代表委員会を設立、1906年に労働党が誕生しました。
イギリスの社会主義政党は、選挙制度の改正もあり共産主義革命路線に進まず、次第に議会制民主主義が主流となっていきました。
ジャガイモ飢饉とアイルランド問題
17世紀のクロムウェルの征服以来、イギリスの最も近い植民地となっていたアイルランドでは、本国人の地主のもとでアイルランド人が小作人になる関係が続きアイルランド人の特に土地に対する不満が高まっていました。
特に1845年に発生したジャガイモ飢饉はアイルランドに100万人以上の餓死者を出し、生き延びる為に大勢のアイルランド人が海を渡り、アメリカ、カナダ、オーストラリアなどに移民として移住していきました。
さらに、ジャガイモ飢饉はヴィクトリア女王即位直後のイギリス本土にも影響を与え、穀物法とともに穀物価格の高騰の要因となって労働者の生活を直撃。大地主の身勝手に嫌気がさした労働者は、選挙権の付与を求めるチャーチスト運動に参加し、アイルランドでも影響が波及しイギリスからの自治を求める政治運動が巻き起こります。
自由党政権のグラッドストンは、自由主義の立場から帝国主義に抑制的であり、アイルランドに一定の自治を認めようと考え、1886年アイルランド自治法案を議会に提出。
しかし、野党ばかりか自由党内からも連合王国の解体に繋がると批判が出て自由党が分裂するなど騒動が続き、アイルランドではイギリス本国に対する政治不満がくすぶり続けます。
20世紀に入ると1905年には自由党政権が成立し、アスキスらが労働党の協力の下で国民保険法などの社会改革を進めます。
またドイツとの建艦競争が始まると、ロイド=ジョージ蔵相は保守派の抵抗を抑えて富裕層への増税を実施、その過程で保守党の牙城である乗員の権限を弱めるために議会法を改正して法案採決での下院の優越を実現させるなど、現在の議会政治につながる改革を行いました。
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中編まとめ
立憲君主制が確立したイギリスでは議会の力が国王に優越し、財政の健全化と透明化が促進され、デフォルトのような放漫財政は起こらなくなり国債には高い信用が産まれます。
そこにオランダ総督ウイリアム3世が戦時公債の仕組みを持ち込み、イギリスは透明性が高い財政を強みに、公債で戦費を調達しオランダ及びスペイン、フランスとの植民地獲得競争に勝利します。イギリス国内では拡大した植民地に対し、足りない人手を補う為に産業革命が進行。資本家が大農場主のジェントリーを上回る勢力を持ちます。
ここから資本家の政治進出が進み、やがて公民権運動へと進展して選挙法が改正されますが、自主独立を求める運動はイギリスの植民地へも飛び火していくのです。
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