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南宋滅亡と日本の関係
南宋の滅亡に伴い、蘭渓道隆、兀庵普寧、大休正念、無学祖元が鎌倉時代の日本に続々と亡命してきました。
鎌倉幕府執権である北条得宗家は、北条時頼、北条時宗と禅宗僧侶を保護、円覚寺などを開いて布教を奨励し、自身も禅宗に帰依したので禅は武士の教養となっていきます。
同時に南宋からの亡命者である禅僧は、南宋の滅亡とモンゴルの脅威を身近に見聞した者として鎌倉幕府に情報を伝え、これが元寇における鎌倉幕府、ひいては執権北条時宗の対元交渉の指針になった点も大きいでしょう。
また、南宋は紙幣である会子を発行していたので余剰の銅銭が多く日本にもたらされ日本経済の円滑化と活性化に貢献しました。
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南宋の経済
西暦1142年紹興の和議を実現した後、南宋は江南地域の開発に尽力。
囲田や圩田などで耕地を広げ、占城稲の伝来等で農業生産力が高まり、国内人口を食べさせるに十分な食糧生産が可能になります。
それにより米意外にも、中国茶・甘蔗などの換金農作物の栽培が広がりました。換金作物の流通は農家に現金収入をもたらし、消費経済が拡大して他産業の成長を促進。景徳鎮の陶磁器や、絹織物、製紙業、木版印刷なども盛んになります。
巨額になった商取引の決済ツールとして会子という紙幣も流通するようになり遠隔地との取引も盛んになりました。やがて、国内需要を満たした陶磁器、織物、書籍などは金、朝鮮、日本などに輸出され、また東南アジア、インドをへて西アジア、アフリカ、地中海諸国とも交易が行われます。
南宋の都、臨安は世界的な大都市として発展。日本の平清盛や、鎌倉幕府も南宋との日宋貿易を介し宋銭を輸入し、多くの僧侶が宋に学んで帰国後に鎌倉仏教の創始に加わりました。
また南宋で発達した朱子学は日本でも受容され宋学と呼ばれるようになり、その中の「大義名分論」は後醍醐天皇の建武新政の理念となり、幕末には水戸学と融合して尊王攘夷運動の精神的な支柱になります。
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南宋皇帝
南宋の歴代皇帝は以下の9名です。
廟号 | 在位年数 | |
① | 高宗 | (1127~1162年)
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② | 孝宗 | (1162~1189年)
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③ | 光宗 | (1189~1194年)
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④ | 寧宗 | (1194~1224年) |
⑤ | 理宗 | (1224~1264年)
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⑥ | 度宗 | (1264~1274年)
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⑦ | 恭宗 | (1274~1276年) |
⑧ | 端王 | (1276~1278年)
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⑨ | 衛王 | (1278~1279年)
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事実上の南宋は、7代目の恭宗の時代に元に降伏して滅亡し、その後の端王と衛王は、亡命政権が擁立した王なので即位しておらず、その為、廟号はありません。
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南宋 最後の皇帝
南宋最後の帝は趙昺と言い、西暦1271年に度宗の七男として誕生します。1276年、南宋の帝都臨安が陥落し恭帝と謝太后は元軍に囚われました。
楊亮節、陸秀夫、張世傑、陳宜中、文天祥などの護衛の下、益王趙昰(趙昺の兄)は福建に逃れ即位。ともに逃れた趙昺は衛王に封じられます。1278年端宗が、船の転覆事故が元で僅か10歳で崩御すると、陸秀夫により碙洲梅蔚にて趙昺が皇帝に擁立されて祥興と改元。
元軍を避けて崖山へと逃れますが、1279年元の張弘範による崖山攻撃が開始され宋水軍は張世傑指揮の下崖山の戦いと称される海戦を開始。しかしこの海戦で宋軍は壊滅。陸秀夫は8歳の趙昺を抱いて入水しここに南宋の残存勢力は完全に滅亡します。
趙昺の最後は、まるで壇ノ浦の戦いで、祖母である二位の尼(平時子)と共に入水自殺した安徳天皇のようですね。
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南宋が弱かった理由
南宋が弱いのは前王朝、唐に原因があります。
唐は財政が傾くと辺境地域の防衛を節度使に丸投げし、節度使はこれをいい事に私兵を集めて軍閥と化していき、次第に唐王朝の命令を聞かなくなり、節度使同士で領土争いを始めます。
宋の太祖、趙匡胤も軍閥であり、クーデターで後周王朝から禅譲を受けて皇帝になった経緯から節度使こそ騒乱の元であるとして、根気強く節度使を説得して兵権を奪い、代わりに山ほどの恩給を与えて懐柔し、次第に兵権を朝廷に集めていきました。
北宋も南宋も趙匡胤のやり方を遺訓として守り、武官に兵権を与える事を危険視し、仮に軍閥のような存在が出来ても、秦檜のように岳飛を罪に落す方法で排除しています。
結果、武官は絶えず文官の下に置かれ不遇で、軍隊は浮浪者や食い詰め者を吸収し仕事を与え犯罪を抑止する役割を果たすのみで士気に乏しく、南宋軍は弱体だったのです。
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中国史ライターkawausoの独り言
以上、岳飛が誕生した南宋がどんな国だったのかを出来るだけ分かりやすく解説しました。この記事を辿ると、どうして岳飛が活躍でき、同時にどうして岳飛が冤罪に落されてしまったのかが、ある程度は分かるのではないでしょうか?
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