南宋はどんな国?岳飛を産んだ中華史上最弱軍を持つ帝国を徹底紹介

2021年6月18日


 

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「宋」の国旗をバックとした兵士

 

南宋(なんそう)は、1127年から1279年まで主に中国江南地方を支配した王朝です。

 

三国志で説明すると蜀と呉の領地を併せた位が南宋の支配地域でした。南宋は、女真族の王朝である金に華北を奪われ、北宋の王族が江南に亡命して出来た臨時政府ですが、経済力では北宋を大きく上回る繁栄を見せます。

 

岳飛(南宋の軍人)

 

ところが南宋は戦争には弱く中国史上最弱の軍隊しか保有していませんでした。今回は英雄岳飛(がくひ)を産み、日本とも繋がりが深い南宋について解説しましょう。

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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北宋滅亡と南宋建国

「金」の国旗をバックとした兵士

 

暦1127年、宋の太祖趙匡胤(ちょうきょういん)が建国した北宋は、女真族が興した金王朝の侵攻により滅亡しました。靖康(せいこう)の変です。

 

金は北宋の皇帝徽宗や多くの王族と重臣を人質に取りますが、その中で徽宗の9男、高宗が金の追撃を逃げのびて江南に亡命政府を樹立しました。

 

当初不安定だった亡命政府ですが、1138年に臨安(りんあん)を都としてから安定し、1279年に元の侵攻を受けて滅亡するまで江南地方を中心に勢力を維持します。これが南宋です。

 

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紹興の和で経済大国の道へ

長安(俯瞰で見た漢の時代の大都市)

 

金は北方騎馬民族である女真族の建国した国であり、長江を越え江南地方まで攻め込む意欲はありませんでした。

 

秦檜(しんかい)

 

それでも、国境が画定するまで抗争は頻繁であり、主戦論を説く岳飛と和平を説く秦檜(しんかい)の二陣営が激しく対立して政争が起こります。

 

高宗は岳飛の主戦論ではなく秦檜の和平論を採用。1142年、金に対して多大な貢納と引き換えに紹興(しょうこう)の和を結び淮河(わいが)を国境とします。紹興の和を実現した事で南宋は国力を江南開発に振り分ける事が可能になり経済大国への道を歩む事になりました。

 

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南宋 武将

岳飛(南宋の軍人)

 

南宋は北宋建国以来の国是(こくぜ)である文官優位態勢を維持したので、武官は不遇でしたが、それでも見るべき名将は何名か存在します。

 

・岳飛

西暦1103年、豪農の出として北宋末期に誕生し、1122年には開封を防衛していた宗沢の義勇軍に参加します。岳飛は武勇に優れ、金との戦いで功績を挙げ1134年には清遠軍節度使(せいえんぐん・せつどし)湖北路荊襄潭州制置使(こほくろ・けいじょうたんしゅう・せいちし)に任命されました。

 

1140年には北伐の軍を起こし、朱仙鎮(しゅせんちん)で会戦を行い金の総帥斡啜(おじゅ)の率いる軍を破って開封目前まで迫りますが、政敵である秦檜の策謀で撤退命令が出され、孤立した岳飛軍も撤退を余儀なくされます。

 

その後、岳飛は国内の抗戦感情を煽る危険な存在として秦檜に謀反の冤罪を被せられ処刑されました。

 

韓世忠(かんせいちゅう)

西暦1088年、延州綏徳城(えんしゅうすいえんじょう)の貧家に生まれます。北宋は貧困対策として貧しい青年層を兵士として取り立てて職を与え、社会不安を軽減する政策を採用していて韓世忠も18歳で軍人になります。

 

方臘(水滸伝)

 

1120年、方臘(ほうろう)の乱が起きると、王淵(おうえん)指揮下の将校として鎮圧に従事し方臘を捕虜にする大手柄を挙げ万人敵と称えられます。南宋の宿敵であった金の侵攻も何度か退けますが、大勢は覆らず靖康の変の後は高宗を済州まで護衛、以後は金との戦いに明け暮れました。

 

黄天蕩(こうてんとう)の戦いでは妻の梁紅玉(りょうこうぎょく)とともに8千の兵で金の10万の大軍を巧みに翻弄し敵兵2万5千を倒すという殊勲を挙げ、高宗から「中興の武功第一」と称されますが和平派の秦檜の勢力が強まると兵権を奪われ隠遁します。

 

張俊(ちょうしゅん)

1086年秦州三陽寨(しんしゅう・さんようさい)に誕生します。家は貧しく少年時代は匪賊(ひぞく)に属していましたが、16歳の時に地元の軍の弓箭手(きゅうせんし)募集に応じ西夏や金との戦いに参加します。

 

騎射の術に長けた騎馬兵士

 

靖康の変では太原府で金軍を防いでいたものの脱出。南宋を建国した高宗に仕えて金軍との抗争を通じて戦功を重ね軍閥のボスとなりました。しかし、同時期に急成長してきた軍閥の岳飛に反発、秦檜が金との紹興の和議を提案すると岳飛が和平に反対している事から対抗意識で秦檜に賛同。秦檜と共に岳飛を陥れ、見返りに枢密使のポストを得ます。その経緯から秦檜と同様の国賊とされます。

 

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南宋 宰相政治

秦檜(しんかい)

 

南宋は文官優位の国であり、その象徴として宰相の権力が非常に強い体制でした。ここでは、南宋の宰相を数名紹介しましょう。

 

・秦檜

秦檜(南宋の政治家)

 

売国奴として現在中国でも評判が悪い秦檜ですが、金との抗争に疲れた高宗に信任され宰相の地位に就くと和平案を推進し岳飛、韓世忠、張俊のような軍閥に握られていた兵権を取り上げて朝廷の下に一元化します。

 

さらに、金との和平を完全なものとする為、秦檜は主戦論者を弾圧。槍玉として岳飛に謀反の濡れ衣を被せ処刑しました。こうした犠牲を払い、紹興12年(1142年)に宋と金の間で紹興の和議が成立、淮河から大散関線が宋と金の国境線となり政局が安定します。

 

内容に納得がいかないkawauso様

 

秦檜は売国奴のレッテルを貼られがちですが、その権力は高宗の支持により成立したものであり、当時の南宋にも抗戦派だけでなく和平派がいた事も見逃せない事実でしょう。

 

韓侂冑

韓侂冑(かんたくちゅう)

 

韓侂冑は1152年に相州安陽県で誕生します。父の韓誠が高位だった事からその恩恵で高い地位からキャリアをスタートし、孝宗の末年には汝州防禦使、知閣門事に昇進します。

 

孝宗は南宋最高の名君であり金の名君である世宗と長期の平和を維持していましたが、後継者の光宗は無能で慈懿(じい)皇后に政治は委ねられていました。韓侂冑は、宰相の趙汝愚(ちょうじょぐ)と光宗を退位させ光宗の子である嘉趙拡(ちょうこう)の即位を画策し太皇太后呉氏(たいこうたいごう・ごし)支持を受けて寧宗を即位させます。

 

以後、韓侂冑は自身を遠ざけた趙汝愚たちの追い落とし1195年に趙汝愚は宰相を追われ韓侂冑は宰相の地位に就きました。韓侂冑は、晩年後ろ盾の恭淑皇后と慈懿皇太后が相次いで死去して求心力が低下。その頃、金が北のモンゴルの侵入に悩まされていたので金を倒し中原を回復すれば地位は盤石と考え1206年に開禧の北伐を開始します。

 

敗北し倒れている兵士達a(モブ)

 

ところが南宋軍は衰えた金よりも遥かに弱体化していて、北伐は失敗に終わります。1207年、金は早期和平を望んで北伐の元凶、韓侂冑の首を南宋に要求。礼部侍郎の史弥遠(しびえん)が韓侂冑を殺害。翌年には嘉定の議が締結されました。

 

・史弥遠

史弥遠は孝宗の治世に右丞相を務めた史浩(しこう)の子で1179年に明州(ぎん)県に誕生しました。1206年宰相の韓侂冑が、金との和平条約を破棄して北伐に乗り出し失敗すると、史弥遠は北伐反対派として楊皇后と共謀して韓侂冑を殺害。

 

韓侂冑粛清に協力した銭象祖(せんしょうそ)衛涇(えいせい)を追放し、単独宰相として25年間権力を維持しました。しかし、史弥遠の政治は兌換紙幣、会子の濫発による物価高と重税により支えられ文治主義が重んじられて軍事力が低下、南宋滅亡の原因を造る事になります。

 

餓えた農民(水滸伝)

 

史弥遠は1233年に死去しますが、モンゴルは同年に金の首都開封を陥落させ南に逃げた金の最後の皇帝哀宗を宋軍と協力して追い詰めて1234年に金は滅亡します。

 

一時、良好な関係だった南宋とモンゴルですが、南宋が和約に反して開封を奪還した為に、今度は南下するモンゴルの圧力と戦う事になりました。

 

賈似道(かじどう)

賈似道は賈渉の妾の子として1213年、台州天台県で誕生しました。

 

当時の皇帝、理宗の寵妃である姉の働きかけで科挙の予備試験を免除された賈似道は殿試に及第して進士となり、1246年、国境地帯で対モンゴル戦を監督し戦果を挙げていた孟珙の後任として任命された賈似道は湖北に赴任し築城によって国境の防備を固め、勃興してきていたモンゴルの侵攻に備えました。

 

フビライ・ハーン モンゴル帝国

 

同年、モンゴル帝国の皇帝モンケ=ハンが四川に進攻し弟のクビライに鄂州(がくしゅう)、将軍ウリヤンカダイを広西から湖南に進め三方から南宋を攻撃すると賈似道は鄂州の軍事を取り仕切りクビライの攻撃を防ぎ四川の呂文徳と共に鄂州を包囲したウリヤンカダイを攻撃。モンケ=ハンが四川で病没すると、クビライもウリヤンカダイも撤退しました。

 

モンゴルに勝利した賈似道は1260年臨安に凱旋、丞相として中央政界に参画します。

 

蔡京(水滸伝)

 

賈似道は、軍人には厳しい規律を課し、功臣でも容赦なく処分する一方で、文官に対しては過去の過失を問わない柔和な態度で接し協力を得る事に成功。権力は賈似道に集中し、彼は別荘で全ての行政書類を決裁し朝廷は内容も見ずに判を押すカーボンコピーと化します。

 

モンゴル兵(蒙古兵)のモブ(兵士)

 

しかし、1268年、南宋と元の最前線であった襄陽が元軍の包囲を受けると、弱体化した南宋軍では元に対抗するのは不可能となり権力の失墜を恐れた賈似道は皇帝への戦況報告を握りつぶすなど敗北をひた隠しました。

 

そして、起死回生の策で元軍司令官バヤンに和睦を提案しますがバヤンは交渉を拒否。賈似道は夏貴(かき)孫虎臣(そんこしん)に艦隊を与えて元軍を攻撃しますが丁家洲(ていかしゅう)の戦いで大敗します。

 

朝まで三国志201 観客2 モブでブーイング

 

朝廷では廷臣たちが賈似道を極刑に処すように主張し、一度は太皇太后謝氏の取り成しで漳州(しょうしゅう)に流罪と決まりますが、途中漳州の木綿庵で会稽県尉の鄭虎臣に殺害されました。韓侂冑、史弥遠、賈似道に象徴される宰相政治は70年の長期に及び、南宋の歴史のほぼ半分を占めています。

 

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台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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