正史三国志からはうかがい知れませんが、鄧艾は蜀討伐は時期尚早と乗り気ではありませんでした。それがわかるのは、晋書文帝紀の記述で蜀征伐を考案したのは司馬昭と鍾会であり、司馬昭は自分の部下だった師簒を鄧艾につけて蜀征伐について説得し、ようやく鄧艾は重い腰を上げます。
そして、司馬昭のプランでは、鄧艾に沓中の姜維を包囲させて成都と分断し漢中には鍾会を派遣して劉禅にビビらせて降伏を促すプランだったようです。
さて、姜維ですが鍾会が陽平関に入ったと聞くと諸葛緒を欺いて包囲を抜け、剣閣に入りました。これは、諸葛緒の大チョンボです。鍾会は諸葛緒をやる気がないとして更迭し軍権を剥奪しますが、自分のプランを台無しにされた諸葛緒の処分ですから司馬昭も納得した事でしょう。
鄧艾にしても、司馬昭プランを破綻させた手前どうしても剣閣を迂回して成都を落とさざるを得なくなりその成功で有頂天になったのかも知れません。
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