鄧艾とはどんな人?鍾会に陥れられ衛瓘の指図で殺された鍾会の乱の犠牲者

2021年4月17日


 

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姜維と一緒に戦う鍾会

 

三国志の終盤で起きる反乱に鍾会(しょうかい)の乱というものがあります。これは、魏の重臣であった鍾会が蜀を討伐した後に蜀の姜維(きょうい)と結託して独立し偽の(みことのり)を発し魏に攻め込もうとして未遂(みすい)に終わった事件です。

 

前人未到のルートで蜀にたどり着いた鄧艾(トウ艾)

 

この鍾会の乱において欠かす事が出来ない働きをしたのが魏の鄧艾(とうがい)であり、彼が命懸けの山登りや崖下りをしなければ、成都は陥落する事なく当然鍾会の乱も起きませんでした。

 

トウ艾(鄧艾)が気に食わない鍾会

 

そして鄧艾は、まさに蜀を滅亡させた為、鍾会に(うと)まれ殺される運命を辿るのです。

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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鄧艾の履歴

屯田民だった若き鄧艾(トウ艾)

 

鄧艾は荊州義陽郡棘陽県(けいしゅうぎようぐんきょくようけん)に生まれました。

幼くして父を亡くし、曹操(そうそう)が荊州を征服した後、母と共に連行され汝南の屯田(とんでん)民となり、12〜13歳で県に召し出されて吏となり農業を監督する役職に就きました。

 

吃音で悩まされた鄧艾(トウ艾)

 

鄧艾は生まれつき吃音(きつおん)で、その為に周囲に揶揄(からか)われていましたが、真面目に仕事をこなして地道に昇進していきます。

こうしてみるとマジメな人なんですが、一方で激しいコンプレックスがあり他人から援助を受けても屈辱感が先になり感謝の意を伝えられないなど、頑固で融通(ゆうづう)が利かない一面もありました。

 

鄧艾

 

鄧艾は、たまたま役目で洛陽(らくよう)に赴く事があり、そこで司馬懿(しばい)謁見(えっけん)して才能を見出され、地方官から引き抜かれ、一躍中央の出世コースに乗ります。

 

農業の知識が豊富な鄧艾(トウ艾)

 

その後は、司馬懿のブレーンとして大規模な灌漑(かんがい)事業を指揮し穀物の生産量を増大させたり、将軍として毌丘倹(かんきゅうけん)の乱を鎮圧したり、蜀の姜維(きょうい)の北伐を阻止するなど戦功を積み重ね

 

司馬昭から蜀の討伐を命じられる鍾会と鄧艾(トウ艾)

 

西暦263年には大将軍司馬昭(しばしょう)により蜀討伐の将軍の1人に選ばれたのです。

 

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鍾会、剣閣で立往生する

鄧艾と姜維

 

鄧艾は沓中(とうちゅう)で、ここを拠点にしていた蜀の姜維と対峙します。

鄧艾は命令を下し、雍州(ようしゅう)刺史の諸葛緒(しょかつしょ)に姜維の背後を突かせて退路を遮断。

天水太守王頎(おうきん)らには姜維の軍営を攻めさせ、隴西太守牽弘(けんこう)には、それより手前で迎撃させて、金城太守楊欣(ようきん)らを甘松(かんしょう)に向かわせます。

 

鍾会

 

同じ頃、10万の大軍を率いる鍾会は、斜谷(しゃこく)駱谷(らくこく)より蜀の玄関である漢中(かんちゅう)を目指して進軍していました。姜維は鍾会の漢中進軍を知ると急いで帰還しようとしますが、楊欣(ようきん
)
らは、姜維の追撃を行い彊川口(きょうせんこう)まで追い打ちを続けます。

 

姜維の心中

 

撤退を続ける姜維ですが、この頃、諸葛緒がすでに退路を塞ぎ橋頭(きょうとう)に駐屯していると聞いたので、姜維は孔函谷(こうかんこく)を迂回して諸葛緒(しょかつしょ
)
の陣営の背後に出るように見せかけます。

進軍する兵士c(モブ用)

 

諸葛緒はこれに釣られ姜維の迂回を防ぐため三十里ほど後退しました。姜維は諸葛緒の軍が退いたと知ると手薄になった橋頭(きょうとう)より一気に退却してしまいます。

 

諸葛緒は失敗に気付き、姜維の退路を遮ろうとしますが1日の差で逃がしてしまい姜維は何とか東へ引き上げ剣閣(けんかく)の守備につくと鍾会に備えました。

この剣閣は、天然の要害であり鍾会はすぐさま姜維に攻勢をかけますが、なんとも出来ずに膠着(こうちゃく)状態に陥ります。

飽きっぽい鍾会は、戦争を諦め退却する準備を開始しました。

 

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トウ艾

 

鄧艾、命懸けの秘境探検で成都を陥落

鄧艾(トウ艾)と一緒に木を切り蜀に前進する鄧忠(トウ忠)

 

ここで鄧艾は鍾会に献策します。

「剣閣は堅牢で簡単に落とす事は出来ません。そこで、迂回して陰平(いんぺい)より横道を通り漢の徳陽亭(とくようてい)を経て()へ向かえば、剣閣から百里、成都から三百余里の地点に出て、敵軍の心臓部を突く事が出来ます。

 

行軍する兵士達b(モブ)

 

そうなれば、剣閣の守備兵は必ず()に駆けつけるので剣閣の守備は少なくなり、突破は容易になりますし、仮に剣閣が動かずとも涪に対応する兵力は少なくて済み、私の兵だけで成都を落とすのが簡単になりますが、いかがでしょう?」

 

どの道、ジリ貧の鍾会は、自分が損をする事もないので、鄧艾の進言を許可します。

 

毛布に包まり崖を転げ落ちる鄧艾(トウ艾)

 

鄧艾は手持ちの兵だけで、陰平道から断崖絶壁(だんがいぜっぺき)を通過し谷に橋を架け、途中で補給をすてて身軽にし、急な斜面を絨毯(じゅうたん)(くる)まって転がり下りて進み、ようやく江油(こうゆ)に到達すると、まさか敵が来るとは思わない守将の馬遵(ばじゅん)は驚き降伏。

 

鄧艾と全面対決で敗れて亡くなる諸葛瞻

 

鄧艾はその後、綿竹(めんちく)に迎撃に来た諸葛瞻(しょかつせん)も二度目の攻撃で撃破し諸葛瞻は戦死します。劉禅(りゅうぜん)は「もはやこれまで」と玉璽(ぎょくじ)と綬を鄧艾に手渡して降伏し蜀は滅亡しました。

 

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鄧艾は天狗になる

蜀を滅ぼし己の功を自慢しはじめる鄧艾(トウ艾)

 

しかし、蜀を滅ぼした後、鄧艾は明らかに天狗になります。恵まれない少年時代を送り、吃音を周囲にバカにされてきた反動でしょうか?

 

降伏する劉禅

 

まず、鄧艾は諸王や群臣六十名あまりを連れて降伏してきた劉禅を許し、蜀でも略奪を許さず降伏者も元の仕事に戻したので蜀の民に讃えられます。

 

司馬昭

 

ここまでは、恐らく司馬昭の命令通りだと思うのですが、その後鄧艾は朝廷の許しも得ず独断で劉禅を驃騎将軍(ひょうきしょうぐん)、太子を奉車都尉(ほうしゃとい)、諸王を駙馬都尉(ふばとい)(とするほか、蜀の重臣たちもそれぞれ元の官位に戻したり魏の官職を授けたり、優秀なスタッフは鄧艾の属官にするなどスタンドプレーが目立ち始めます。

 

長安(俯瞰で見た漢の時代の大都市)

 

鄧艾は、やがて自らの戦功を誇るようになり、蜀の士大夫に嘲笑(ちょうしょう)されるようになりました。

それでも蜀討伐の功績で鄧艾は太尉に任命され二万戸を加増されます。この頃、すでに70歳近い年齢だったようです。

 

出世しても農耕の必要性を説く鄧艾(トウ艾)

 

鄧艾のスタンドプレーは続きます。すでに隠居してもよい年齢であり功績を焦ったのか、成都に駐屯したまま呉征伐の計画を立て、将兵を休ませつつ盛んに農業をして食糧を備蓄し造船を開始していきます。

 

遣唐船(奈良時代)

 

さらに、劉禅を成都に留めて厚遇し扶風(ふふうおう)に任じて財産を戻すなどし、呉の孫休の自発的な降伏を誘いました。

 

鍾会軍の軍監として従軍する衛瓘

 

鄧艾がこれらの一連の計画を司馬昭に告げると、ここまで権限を許していない司馬昭は困惑、軍監の衛瓘(えいかんに命じ鄧艾を戒め自分の考えだけで勝手な行動を起こさないよう注意します。

 

地理や地形に精通していた鄧艾(トウ艾)

 

ところが鄧艾は大人しくするどころか、兵法書の文句を引いて、戦地において将軍は君主の命令をあえて聞かない事もあると反論しました。

これはいけません。さしもの苦労人鄧艾も、生来の強情さに大手柄の慢心、それに老害が加わり、自分が何をしているのかよく分かっていないようです。

 

自分は天才肌だと勘違いする鍾会

 

ここでチャンス到来と1人、ほくそえんでいる男がいました。鄧艾に蜀攻略の手柄を奪われてプライドを傷つけられた鍾会です。

 

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台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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