三国志演義でも
また三国志演義において、黄権は全体的に出番も多めであり、その活躍から、働きまでを描かれているのに対し、潘シュンはほぼ名前だけ登場します。
その際においても潘シュンは「酒飲みの小人物で信用できない」とまで言われ、その後も糜芳、士仁らと共に呉に降ったとされるだけの有様。
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どうしてこうなった
さて黄権は蜀から魏に降りました。潘シュンは蜀から呉に降りました。両方とも積極的に裏切ったとは言えない状況であり、やむを得ない部分も大きいと思います。しかし後世において一方は称えられ、一方は非難される。彼らの際はどこで生まれたのでしょうか?
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残された者たち
ここで思い出して欲しいのは黄権は妻子が蜀に残されています。対して潘シュンは一族が呉に降っています。つまり記録に対してどう思うか、関りのある人物が残っているかどうかが大きな違いではないかと思われます。現に呉書において潘シュンは評価をきちんとされているのに対し、蜀の人物史では手酷く記録されていますね。
また黄権は魏でそこまで出世したということはなく、潘シュンは寧ろ呉においてその能力を活かし、良い働きをしました。個人的には「蜀ではその能力を引き出せなかったんだな」とは思うのですが、そういう別の土地に行って成功した、しかもそれは敵地、というところで潘シュンの評価が貶められてしまったのでは、と思います。
だからこそ黄権は蜀書に、潘シュンは呉書に記録されたのでしょう。後世の評価ががらりと違う降将の二人ですが、それぞれの生き様もまた歴史の一ページ。先入観を持たずに、その一幕を楽しみたいですね。
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三国志ライター センのひとりごと
またこれは個人的な観点ですが、潘シュンが降るきっかけに関羽の死があります。関羽は後に神格化までされた人物。もしかしたら多くの人が潘シュンに対して「なんで関羽に殉じなかった!」という憤りを感じていたのかもしれません。
それが影響したと考えると、やはり関羽の影響力は大したもの。正に首だけになっても数多くの人に影響を与える人物……などと諳んじつつ、本日も三国志の沼にハマって行こうと思います……
どぼん。
参考文献:蜀書黄権伝 呉書潘シュン伝 季漢輔臣賛
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