広告

敵国に降伏した黄権と潘濬、降将は歴史家や小説家からどう評価されるの?

2021年8月12日


 

はじめての三国志コメント機能バナー115-11_bnr1枠なし

李カク(李傕)、郭汜、王允

 

三国志は各国の、争いの歴史とも言えます。そして多くの争いの中では命を落とす武将もいれば、敵国に望む望まぬに関わらず降る、いわゆる降将たちも出てきます。

 

潘濬(はんしゅん)

 

今回はそんな降将たちの中から、黄権(こうけん)潘濬(はんしゅん)について。少し比較しながら見ていきたいと思います。

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


【誤植・誤字脱字の報告】 バナー 誤字脱字 報告 330 x 100



【レポート・論文で引用する場合の留意事項】 はじめての三国志レポート引用について



黄権の人物像

黄権

 

まずは黄権。彼は蜀書に記載のある人物ですが、元々は益州(えきしゅう)を治める劉璋(りゅうしょう)の元にいました。その時には主簿をやっており、劉備(りゅうび)の企みというか何というか、危険性を見抜いて劉璋に進言するも、それが受け入れられることはありませんでした。しかし劉璋より先に降伏することもなく、忠義を果たし、それが劉備に気に入れられ、深く信頼されることとなります。

 

関連記事:魏延が暗殺しようとした劉璋とはどんな人だったの?

関連記事:劉表や劉璋が天下を取れなかったのは無能だからではなかった!

 

蜀のマイナー武将列伝

 

 

魏への降伏

キレる劉備になだめる黄権

 

後に劉備は呉との戦いを決意し、黄権はこれを諫めるも聞き入れられず、退路を断たれた黄権は「呉に降伏するくらいなら」と魏に降ることとなります。

 

皇帝に就任した曹丕

 

その際に曹丕(そうひ)から意地悪な言葉をかけられるも劉備を非難することも自分を正当化もせず、魏の国においてもその人柄は称えられました。対して劉備も魏に降った黄権を責めることなく、彼の残された妻子を罪に問うこともなく、義侠の士として蜀書にその名が残されました。

 

関連記事:張遼は過労死したってホント?曹丕に気に入られて寿命を縮めた悲運な漢

関連記事:明かされた真実!曹丕・曹植の後継者争いは、曹操と曹丕が仕組んだ罠だった?

 

魏のマイナー武将列伝

 

潘濬

潘濬(はんしゅん)

 

潘濬は劉備が荊州(けいしゅう)を統治する際に、その配下となり、後には関羽(かんう)の元で働いていました。劉備からは慕われるも、関羽からは糜方(びほう)士仁(しじん)らと共に嫌われていたとも言われています。

 

父・関羽とともに亡くなる関平

 

そんな潘濬は荊州が落ち、関羽が殺されてからも呉に降ることなく自宅に引きこもっていました。その際にベッドに括り付けたまま孫権(そんけん)に召集されるというパワープレイで迎えられ、孫権から「古の賢者たちは捕虜になった後に、抜擢されて名臣になる人物たちも多い。君もそうなってはくれないだろうか」と説得され、それに感服した潘シュンは以後、孫権に重く用いられるようになります。

 

関連記事:関羽の末裔は皆殺しにされた?史書に残る末裔に迫る

関連記事:関羽は劉備の配下ではなかった?荊州独立説を考察

 

関帝廟

 

 

しかし……

呉志(呉書)_書類

 

潘濬は元々蜀の武将ですが、後に呉に降ったために呉書に記録されることとなります。呉に降った後の潘シュンは正に忠義の将そのものであり、正に硬骨漢(こうこつかん)。かなり評価の高い人物として記録されています。

 

蜀志(蜀書)_書類

 

しかし「季漢輔臣賛(きかんほしんさん)」においては「糜芳、士仁と並んで、呉、蜀二国において裏切り者として笑い者とされた」という酷い有様で記録されているのです。因みにこの季漢輔臣賛というのは蜀の人物史なのは言うまでもありません。

 

関連記事:関羽と糜芳、両者の関係は如何なものだったのか?

関連記事:関羽の死に関わってしまった糜芳の顛末!正当な評価されている?

 

【次のページに続きます】

 

次のページへ >

  • この記事を書いた人
  • 最新記事
セン

セン

両親の持っていた横山光輝の「三国志」から三国志に興味を持ち、 そこから正史を読み漁ってその前後の年代も読むようになっていく。 中国歴史だけでなく日本史、世界史も好き。 神話も好きでインド神話とメソポタミア神話から古代シュメール人の生活にも興味が出てきた。 好きな歴史人物: 張遼、龐統、司馬徽、立花道雪、その他にもたくさん 何か一言: 歴史は食事、神話はおやつ、文字は飲み物

-三国志の雑学
-,