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奇跡の共存 第六回十字軍
宗教熱とは真逆に、欲望と破壊に塗れた第四回十字軍の後、第五回十字軍が教皇ホノリウス3世の呼びかけで始まり、ハンガリー王アンドラーシュ2世、オーストリア公レオポルト6世らがエルサレム王国国王ジャン・ド・ブリエンヌらとアッコンで合流しエジプト征服を目指しますが、参加した諸侯と枢機卿のペラギウスとの間で利害が対立。
レオポルドやジャンが途中で退却、1221年に神聖ローマ皇帝ハインリヒ2世が援軍を送りますが、十字軍はエジプト軍に大敗し枢機卿含め多くが捕虜とされる惨敗を喫します。
ホノリウス3世の後を継いだグレゴリウス9世は、十字軍実施を条件に戴冠式を許した東ローマ皇帝ハインリヒ2世に約束履行を執拗に迫り、ハインリヒ2世は渋々、西暦1228年第六回十字軍が召集します。
神聖ローマ皇帝ハインリヒ2世はイタリアのシチリア王国で生まれ、イスラム教とキリスト教が混ざり合った環境で育ったのでアラビア語を流暢に話す事が出来、また「玉座最初の近代人」と呼ばれる開明的な君主でした。
これまでの野蛮人同然の欧州君主と戦ってきたアイユーブ朝のスルタン、アル=カーミルは、ハインリヒ2世の和平を望む書簡を受け取り、知的で誠実なハインリヒ2世の人柄に惹かれ、徐々に和解を試みる気持になり、ハインリヒ2世と会談して10年の期限付きながらエルサレムをキリスト教徒の元に帰す事を認めます。
実は2人とも国内に多くの不満分子を抱えており十字軍どころではありませんでした。書簡の往来で、お互いが戦争を避けたがっている事を知った両者は、これ幸いと平和的に聖地エルサレムを共有できる方法を探っていたのです。
8回も繰り返された十字軍運動の中で唯一、血を流さずに勝ち取った和解でした。しかし、異教徒と妥協したという事でハインリヒ2世もアル=カーミルも身内から激しく攻撃を受けることになり、折角の平和的共存も長くは続きませんでした。
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十字軍が残したモノ
人々の熱狂と共に始まった十字軍運動でしたが、エルサレムは一時的に奪還できてもすぐにイスラム勢力に取り返され結局、キリスト教徒の手に戻りませんでした。
一方で十字軍を呼びかけた歴代のローマ教皇は、神聖ローマ皇帝と喧嘩するなどして人々の信頼をなくし権威が低下します。
荘園領主は、口減らしで領民や子弟を十字軍に送り込んだものの戦費がかさみ生活を圧迫。また十字軍の遠征で欧州各地に交易路が開かれ、貨幣が導入されて富裕な商人が商業都市を築いて自立するようになると、閉じた経済圏の中で領主の畑を耕して食べるしかなかった人々も商業都市に仕事を見つけ貨幣を稼いで自活していきます。
土地に農奴を縛りつけ、地代で生活していた荘園領主は貨幣経済に対応できずに没落していく事になりました。十字軍遠征で物資と兵員の輸送を担当したヴェネチア商人を含むイタリアの諸都市は莫大な富を築き、ルネサンスの基礎を築いていきます。
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世界史ライターkawausoの独り言
十字軍運動は、ローマ教皇、荘園領主という古い支配者を没落させ、進んだ地中海世界の文物にヨーロッパ人を触れる事で西ヨーロッパに貨幣経済をもたらします。
そして、主として北イタリアの都市国家の市民を中心に交易で得た富を背景として、神を中心とするキリスト教から離れ、自由と個人の尊重を中心に据えるルネサンスが花開いていきました。
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