劉備を招き入れた法正、その極悪人の評価とは?

2021年9月19日


 

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法正、劉璋、劉備

 

法正(ほうせい)」は劉備(りゅうび)益州(えきしゅう)に招き入れた張本人として知られている人物です。

 

清々しいほど性格が悪い法正

 

そんな法正は諸葛亮(しょかつりょう)の陰には隠れていましたが、かなり頭のキレる男だったといいます。策略家としての評価は高い法正ですが、実は悪い評価もあるのです。

 

計画通りの顔をする法正

 

今回の記事ではそんな二面性の男、法正について探りましょう。

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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劉璋の下で不遇の日々を送る法正

法正と孟達

 

法正は司隸扶風郡(しれいふふうぐん)(現在の陝西省宝鶏市周辺)出身ですが、飢饉に見舞われ当時比較的安定していた益州(えきしゅう)の「劉璋(りゅうしょう)」の下に同郷の「孟達(もうたつ)」と共に身を寄せました。

 

法正

 

法正の祖父「法真(ほうしん)」は学問で高名であり、もしかしたらその縁で劉璋に仕えることが出来たのかもしれません。しかし、あるものに「節行」の無さ(節操がない、信頼できない)を指摘され、深くは劉璋に用いられませんでした。

 

 

劉備を益州へ招き入れる法正

法正と張松

 

不遇の日々を送っていた法正は親友の「張松(ちょうしょう)」とともに「劉璋には未来が無い」と常々考えていました。そんな時劉備が益州を狙っていると知り、劉璋を廃し、劉備を益州に招き入れる計画を立てます。

 

法正と劉備

 

先ずは劉璋に劉備と同盟を結ばせ、対立していた「張魯(ちょうろ)」の脅威をあおり、援軍として劉備を招き入れることに成功します。そして劉備の下に赴き、そのまま益州を奪取するように勧め、劉備はその作戦に乗り、益州を手に入れることに成功しました。

 

身長192センチもある彭羕

 

この間、法正は劉璋に降伏を勧告する手紙を送ったり、知り合いの「彭羕(ほうよう)」を劉備に推薦したりしています。

 

劉備に登用されたことを自慢する彭羕

 

ただ、この作戦の最中に親友の張松は計画を密告され、処刑されてしまいますが、どうやら法正はバレなかったようです。このことについて法正がどう思っていたのか記録はありませんが、なんだか「見捨てた」感が強いですね。

 

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劉備の下で活躍する法正

仕事が出来る法正に何も言えない文官たち

 

劉備が益州を手に入れると、法正は中央で諸葛亮と共に多くの作戦の立案に協力して当たることになります。法正と諸葛亮は性格が正反対でしたが、お互いには認めていたといいます。

 

法正に敗れる夏侯淵

 

軍師としても活躍し、「定軍山(ていぐんざん)の戦い」では策を講じ、「黄忠(こうちゅう)」と共に「夏侯淵(かこうえん)」を討つという大きな手柄を立てました。

 

法正

 

法正が策を講じていたと聞いた曹操(そうそう)は、「私は多くの有為な人材を集めたが、法正は取り逃がしてしまったようだ。」と嘆いたといいます。

 

夷陵の戦いで負ける劉備

 

法正は劉備が大敗した「夷陵(いりょう)の戦い」の前に亡くなりますが、諸葛亮は夷陵で大敗した際、「法正が生きていていれば、陛下(劉備)を止めることが出来ただろうし、悪くても大敗は防げただろう。」と語っています。

 

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夷陵の戦い

 

 

劉備、法正の死を大いに悲しむ

法正が亡くなり悲しむ劉備

 

劉備は法正の死を大いに悲しみ、何日間も法正を弔ったといいます。また、「翼侯」という「諡号(しごう)」を贈っています。諡号とは生前の功績を評価した名前を死後に贈ることです。この諡号、実は劉備が生前に贈った唯一の諡号でした。

 

三顧の礼 劉備、関羽、張飛

 

関羽(かんう)張飛(ちょうひ)といった武将にも劉備の生前には贈られておらず、劉備の法正への厚い信頼がうかがえますね。

 

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英雄の死因

 

法正の悪い評価

正史三国志を執筆する陳寿

 

正史「三国志」の著者「陳寿(ちんじゅ)」は法正について「判断力に優れ、並外れた計略を持っていた。しかし、徳性(道徳心)が評価されたことは無かった。」と厳しい評価をしています。

 

私怨で処刑ばかり宣告する法正

 

徳性がない例を上げてみましょう。法正は「太守」(県知事に近い)になると、僅かな恨みにも容赦なく報復し、自分を非難したものを勝手に殺したりしていました。完全な暴君ですが、諸葛亮は法正の能力を評価して目をつぶっています。

 

孟達と劉備

 

また、法正は孟達、彭を劉備陣営に引き入れていますが、孟達はのちに劉備を裏切り、彭は素行不良で処刑されています。このように法正には悪い友人が多かったようです。それによく考えると自分の国と主君を他国に売っていますね。

 

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みうらひろし

みうらひろし

歴史が好きになったきっかけはテレビの再放送で観た人形劇の三国志でした。そこから歴史、時代小説にはまり現在に至ります。日本史ももちろん好きですよ。推しの小説家は伊東潤さんと北方謙三さん。 好きな歴史人物: 呂蒙、鄧艾、長宗我部盛親 何か一言: 中国で三国志グッツを買おうとしたら「これは日本人しか買わないよ!」と(日本語で)言われたのが思い出です。

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