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日本の鎧と中国の鎧はどうして別々の姿になったのか?納得の理由教えます!

2021年9月24日


 

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日本戦国時代の鎧(武士・兵士)

 

日本と中国は隣国で文化的な共通点も多いですが、逆に大きく違う所もあります。例えば鎧や兜を考えても、日本と中国ではその形状が大きく違っています。では、日本と中国の鎧兜はいつから異なる姿になったのでしょうか?

 

忙しい方にざっくり解答02 kawausoさん

 

大昔は形状が同じだった事もあったのでしょうか?調べてみました。

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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中国から伝来した短甲と挂甲

遣唐船(奈良時代)

 

日本における鎧の歴史は古く弥生時代の遺跡から首の下から腰までを覆う木製の短甲(たんこう)とおぼしき部分が発掘されています。そして、古墳(こふん)時代に入ると大陸から金属を使用した鎧が伝来し、埴輪(はにわ)などに武装した人物が現れました。

 

古墳時代に大陸から伝来した鎧は2種類で短甲と挂甲(けいこう)です。

 

短甲とは胴を守る短い鎧で、鉄板同士を(びょう)で接続する技法や覆輪(ふくりん)の技法を使い装飾が施されていました。この時代の短甲には腰回りを防御する草摺(くさずり)や肩から二の腕を守る肩鎧(かたよろい)、腕を守る籠手(こて)、足を守る脛宛(すねあ)てが登場しています。

 

もうひとつの挂甲は革や鉄で出来た長方形の板である小札(こざね)を革か紐で綴じて一枚の板とし板を複数繋いで構成した鎧でした。

 

挂甲には2つの形式があり、ひとつは胴全体を巻いて体の前で合わせる胴丸式。もうひとつは、サンドイッチのように前後の胴の部分をつくり両脇を塞いだ裲襠式(りょうとうしき)です。挂甲は、首長などの支配者が着用しました。

 

短甲も挂甲も中国では、三国時代から南北朝にかけて出現した鎧でしたが、日本人は堅牢だけど体に馴染まない短甲を嫌い、小札を紐や革で綴じた挂甲を好み奈良時代には、挂甲は高級武人用に用いられるようになります。

 

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一般の兵士が着た綿襖甲

攻め寄せる蒙古兵(モンゴル)

 

一般の兵士は安価で軽い綿襖甲(めんおうこう)という唐から伝来した鎧を着ていました。これは、コート状の布の内側に革や鉄の小札を綴じたもので綿が入っているので防寒にも優れています。

 

奈良や平安の時代に一般兵士が身につけた綿襖甲は乾燥した寒い地域にいるモンゴルや女真族も愛用しました。日本では平安時代の国軍の消滅で消えた綿襖甲ですが、元寇(げんこう)で博多に押し寄せてきた蒙古兵は着用しています。綿襖甲を知らない当時の武士には奇異な服装に見えたでしょうが、平安の昔には日本にもあった鎧でした。

 

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元寇

 

 

遣唐使の廃止から鎧が分化する

「宋」の国旗をバックとした兵士

 

唐の時代頃までは、鎧に共通点があった日本と中国ですが唐王朝の政情不安で遣唐使が廃止され、唐が滅亡して五代十国の戦国期に入ると鎧に大きな違いが出てきます。

 

「遼」の国旗をバックとした兵士

 

五代十国の騒乱を制して建国された宋ですが、大陸の北方には騎馬民族契丹(きったん)の王朝である(りょう)

 

西夏の旗の兵士

 

北西には羌族の一派であるタングート族の西夏(せいか)、さらに後年には女真族王朝の金に悩まされる事になりました。

 

「金」の国旗をバックとした兵士

 

また、これらの国々は名馬の産地を抑えたので南北宋王朝は、騎兵の確保に苦しみ、騎兵に対抗する為に、歩甲と呼ばれる全身を鉄で覆った重装歩兵を産み出します。

 

逆に日本では無税の私有地である荘園(しょうえん)が拡大し、公地公民制が崩壊。

 

蒙古兵に先駆けをする竹崎季長

 

税収が激減した朝廷は常備軍を解体して健児(こんでい)の制を敷き、地方の郡司(ぐんじ)庄司(しょうじ)の子弟に官位を与える代わりに私兵団を組織させ、各地で暴れるようになった賊を討伐させました。この時、私兵団は騎馬を主体として賊と戦ったのでその中で騎馬戦に特化した大鎧が登場します。

 

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純日本的大鎧

竹崎季長(鎌倉武士)

 

平安時代は騎兵同士の騎馬戦なので不安定な馬上で戦う上での工夫と敵の矢を回避する工夫。そして目立つように鎧時代を装飾するようになりました。例えば防御面では、韋所(かわどころ)(鎧の胴部分)に栴檀板(せんだんいた)鳩尾板(きゅうびいた)が設置され、右肩と左肩から吊り下げて両脇を守る防具とします。

 

もう1つは草摺(くさずり)で馬上に跨った時に大腿部(だいたいぶ)を四角い箱のようにして守りつつ、重さは馬に吸収される理想的な形でした。

 

そして装飾では弦走韋(つるばしりがわ)があり、金具廻(かなぐまわ)りに絵韋(えがわ)と呼ばれる小紋染めの鹿の(なめ)し革を貼ります。これを弦走韋というのは鉄の小札が弓に引っ掛かる事を阻止するのと装飾性を高める理由がありました。あと1つ、大鎧には小札同士を綴じる縅糸(おどしいと)縅革(おどしがわ)が美しく揃える特徴があります。

 

平清盛 鎌倉幕府

 

縅は古来中国でも鉄や革の小札を綴じるのに使われていますが、どこまでも実用的で日本のように縅の色合いを合わせたりする事はありませんでした。しかし、日本の大鎧では小札を綴じる縅糸は、様々なカラーリングや幾何学文様で飾られ美しさを競うようになります。

 

最後に兜の特徴的な吹き返しは視界を確保すると同時に顔面に刀が当たる事を防ぐ役割と、韋所(かわどころ)に文様を描く装飾的な役割があります。古い時代になるほど吹き返しが大きく兜も大きい特徴があります。

 

一方で騎乗しない歩兵の鎧は、奈良時代の胴丸式挂甲(けいこう)から改良されていきました。挂甲の場合には胴の引き合わせが前中央ですが、胴丸は引き合わせが右脇になり草摺の数も4枚から最終的に8枚まで分割され足さばきを良くする方向に進化します。

 

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地味に影響を与えた革鎧へのチェンジ

桓武天皇 

 

日本の鎧の変化に大きな影響を与えたのは、光仁天皇(こうにんてんのう)桓武天皇(かんむてんのう)の2代の天皇の時代に出された鉄鎧から革鎧へのチェンジもありました。鉄の鎧は防御力が高いのですが、重くて高価な上、革や糸の紐が切れやすくなります。

 

そこで、2代の天皇は鉄の鎧から革鎧へのチェンジを命じたのです。

 

先に紹介した平安時代の大鎧も、草摺部分は鉄ですが胴の部分は革や紙を何枚も貼り合わせたものでした。もし鉄鎧が継続していたら、重い鉄の表面に絵韋(えがわ)を張り付け模様を描くような事もなかったし、切れやすい縅糸で鎧にカラーリングを施す事もなかったのではないでしょうか?

 

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kawausoのまとめの一言

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日本と中国の鎧が分離した一番の契機は、日本において荘園が増大して大和朝廷の中央集権制が弱まり、国軍が崩壊して国司や郡司の私兵団に軍事を委譲した事でした。

 

もし、公地公民制と班田収授法(はんでんしゅうじゅほう)が上手くいき国軍が維持されたなら騎兵を主体とした私兵団も登場せず、馬上での騎射戦に特化した大鎧は誕生しなかったでしょう。

 

また、集団戦では指揮官が前線に出る事は少ないので、上級武人の鎧兜に文様も描かれず、縅糸で鎧をカラフルに装飾する必要性もなく、機能性重視の地味な鎧が標準となったかも知れません。

 

結果、長期間、歩兵を主体とした国軍が維持され鎧も歩兵を中心とした短甲と挂甲そして綿襖甲が長期間続いたでしょう。さらに、唐の政情不安を理由に遣唐使が廃止された事で、中国王朝とのオフィシャルな関係はしばらく途絶え、中国で北宋が建国されると遼や西夏、女真の騎兵と戦う為に宋王朝は騎兵ではなく歩兵を重装歩兵化して、日本とは逆の方向に鎧が変化しました。

 

このような違いから、日本と中国の鎧はかなり違う見た目に変化していったのです。皆さんは、日本の鎧の変化についてどう思いますか?

 

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台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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