扶蘇は始皇帝の長男と言われています。非常に温厚な人物で、暴虐な始皇帝を度々諫めたので、始皇帝は激怒し辺境に追いやりました。
始皇帝は五度目の巡幸の途中に重病に罹り扶蘇を後継者として指名しましたが始皇帝の遺言は扶蘇に届く事無く、彼は偽遺言で自害を命じられて自決します。
どうして扶蘇は自決に追い込まれてしまったのでしょうか?
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生母が不明な扶蘇
始皇帝はキングダムのイメージと違い大変好色であったようで、男子だけで20人以上の公子がいました。その中で扶蘇は長男であったようです。ところが、扶蘇に限らず始皇帝の子供については生母が不明で扶蘇も長男でありながら、長い間後継者に立てられず、また生母の名前も分かりません。
一説によると、始皇帝の重臣に楚出身の昌平君や昌文君がいる事から、彼らは始皇帝が楚から正室を迎えた時についてきた妃の近親者だと考えられ、つまり扶蘇の母は楚人であると推測されています。
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始皇帝に諫言する扶蘇
扶蘇は戦国乱世を知らず温厚な秀才タイプに育ち、徳を重視する儒教思想に傾倒します。逆に戦乱の世を生きてきた始皇帝や李斯は信賞必罰で厳しい法家思想でした。紀元前212年、始皇帝が不老不死の薬を造らせていた方士の盧生と侯生は、薬が出来ない事に音をあげて逃亡します。
盧生「バカ皇帝め!不老不死の薬なんか出来るわけねーだろ!現実と幻想の区別つけろや!アホ!」
侯生「やーい!やーい!始皇帝のヒゲダルマー!おならプープー」
2人は逃げる前に、こんな感じの捨て台詞を吐いたようで始皇帝は大激怒、腹いせに方士や学者で自分を非難した者を探り出して生き埋めにして殺したり、辺境に流罪にする坑儒事件を引き起こしました。
この時、扶蘇は「天下はまだ治まったばかりなのに、学者を殺すような事をしてはいけません」と何度も諫言します。
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扶蘇は蒙恬の下へ飛ばされる
最初は我慢していた始皇帝ですが諫言のあまりのしつこさに立腹し、扶蘇を咸陽からオルドス地方にいる蒙恬の下へ飛ばしてしまいます。
ていのいい左遷ですが、蒙恬は当時、匈奴に対抗すべく30万の軍勢を与えられていたので、蒙恬を監視する役割もあったと考えられています。ただ、こうして始皇帝の下を離れた事は扶蘇にとって大きな不幸となりました。
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始皇帝死す
扶蘇をオルドスに飛ばして2年後、始皇帝は五度目の巡幸の途中に重病に罹ります。もはや助からないと覚悟した始皇帝は遺言状を書いて、扶蘇に咸陽に戻り自分の葬儀を執り行えと命じました。
葬儀を執り行うとは喪主になる事であり、それは始皇帝の後継者として二世皇帝に即位せよという意味です。しかし、始皇帝の遺言を微妙な顔で見ていた男がいました。始皇帝のお気に入りとして末子の胡亥の家庭教師を務めていた宦官の趙高です。
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遺言を握りつぶす趙高と胡亥
趙高は法家の人間であり法律の専門家でした。始皇帝の坑儒の時も勢力を増しつつあった儒学者の弾圧に協力しています。
しかしそれだけに、もし扶蘇が即位すれば坑儒を阻止しなかった責任を取らされる恐れがありました。趙高は同じく法家の人間で坑儒に賛成した李斯を呼び出し、扶蘇が即位すれば側近の蒙恬が丞相となり、あなたも身の破滅だと吹きこみます。
「では、どうするのだ?」と問う李斯に趙高は遺言を書き換えて扶蘇と蒙恬には自決を命じ、新しい皇帝には巡幸についてきている末子の胡亥を当てればいいと言います。
幸いにして始皇帝の勅文は趙高が代筆する事が多く、筆跡の違いからバレる事もなかったのです。李斯は悩んだ末に保身の為に賛成、趙高は胡亥を呼び出し皇帝即位を了承させました。この時、扶蘇の運命は定まってしまったのです。扶蘇の死は法家と儒家の権力争いの末に起きたイデオロギー闘争でもありました。
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