その死の謎
ここで思い出して欲しいのが、顔良が討たれた時のこと。袁紹軍の軍部の重鎮とも言える郭図、淳于瓊が同行している、のみならず、二人は撤退して、顔良は残りました。結果から見るとここで残ったために関羽に討ち取られますが、ここのポイントは「二人は撤退したが、顔良は残った」ことにあります。
つまり二人の撤退に、追従する必要は顔良にはなかった。二人が撤退指示をしても、顔良はその指示を受け入れなくても問題ない地位にあったと思われます。
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袁紹軍、士気の凋落
また顔良、文醜と言う名だたる名将を失ったことで袁紹軍の一気に士気は下がりました。もちろん「あんなに強かった将軍が……!?」という士気低下はあるでしょう。
しかし同時に「顔回と同族の顔良将軍が……!?」という士気低下があったとも考えられないでしょうか。むしろ顔回の同族であったからこそ、顔良は袁紹軍の中核を担っていたのでは?
……これはあくまで、顔良は顔回の同族、一族の一人、であったことを前提のこじつけとも言えますが……顔良と顔回同族説、どうでしょうかね?
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三国志ライター センのひとりごと
実際に顔回と顔良が同族であるかどうかは疑問です。はっきりと歴史に記されている訳ではありません。ただ袁紹軍での地位、立場、振る舞いなどを考えると、そうであった可能性もあるか……?とも考えられます。
しかしこうなると顔回の一族であったにしては呆気なく討ち取られたな……ということも考えられる訳で。まあ同族であったからって全てが全て優秀だとは言い切れませんので、こういう想像もたまにはいいでしょ?
今回は官渡の沼からお届けしました。どぼーん。
参考文献:魏書荀伝 武帝紀 後漢書袁紹伝
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