関羽は劉備と義兄弟の誓いを交わし、深い絆で結ばれていましたが、一時離ればなれになってしまいます。
その際、関羽の才能を高く評価していた曹操は彼を家臣にすることに成功するのですが、やはり関羽の心は劉備の下にあり。曹操と関羽にも別れの時がやってきます。今回の記事では関羽が曹操に一時仕えることになった経緯と、その別れについて書いていきます。
この記事の目次
劉備と関羽の深い絆とは?
関羽と劉備の出会いは「黄巾の乱」でした。
義勇兵を挙げた劉備の下に関羽、そして張飛が集い、三人は「義兄弟」の誓いをしたといいます。その後関羽は劉備と共に各地を転戦し、呂布との戦いの際には曹操に高く評価され、官職を授かっています。
しかし、その後曹操は後漢の皇帝「献帝」を奉じ、思うが儘にふるまうようになります。劉備らはそれに反発し、曹操と対立しますが、攻撃を受けた劉備は袁紹の下に身を寄せます。その際、劉備と関羽は離ればなれになってしまい、やむを得ず関羽は残された劉備の妻子とともに曹操に降伏することになるのです。
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関羽、曹操に降伏するも主を忘れず
小説などでは関羽は曹操に降伏する際に3つの条件を出したといいます。
- 降伏するのは曹操ではなく、「後漢」であること。
- 劉備の妻子の命を保証する。
- 劉備が生きているとわかった際には劉備の下に帰る。
曹操はこれを受け入れ、関羽を将軍職に任ずるなど厚く礼遇します。その後、曹操は袁紹と「官渡の戦い」で雌雄を決することになり、関羽も出陣します。
この時関羽は袁紹軍の武将「顔良」を斬るなど大いに活躍します。そして劉備の消息も知ることになります。関羽は常々曹操への恩返しが済み、劉備の消息が知れたらそのもとに帰ろうと考えており、それを曹操も察していました。
「官渡の戦い」での関羽の活躍を見た曹操は関羽が去ると考え、彼に多くの贈り物をしました。しかし、関羽はそれに手を付けず返し、曹操に手紙をささげて劉備の下に帰るのでした。曹操はその関羽の「義」に感動し、部下に「関羽を追ってはならない」と言ったといいます。
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曹操、関羽を惜しむ「避客牌」(ひかくはい)
小説「三国志演義」などでは関羽と曹操の別れは感動的にアレンジされています。関羽は劉備の所に帰ろうとする際、曹操に別れの挨拶をしようと思い、彼を訪ねました。
しかし、曹操は「避客牌」を門に下げていました。この「避客牌」は屋敷の主がすべての客を断りたいときに掲げておくものであり、客も避客牌が掲げてあった時は帰るのが礼儀、とされていました。
関羽はやむを得ず、その日は引き返し、その後毎日尋ねますが、またしても避客牌が下げられています。その為関羽は曹操からの贈り物を曹操に返し、置手紙をして劉備のもとに帰ることにしたのでした。
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「覇陵橋」での別れ
曹操の下を去った関羽は「覇陵橋」という場所に差し掛かります。関羽がふと後ろを振り返ると曹操と「張遼」(関羽と親しい)が見送っていたのです。
曹操は馬を下り、橋の中ほどまで進み、関羽の前にひざまずき「錦の抱」(錦で作った上着、高級品)を掲げます。関羽はそれを矛で受け取り、曹操の前から「おさらば」と言い残し、劉備の下に向かうのです。曹操はその関羽の後ろ姿をほれぼれと見送っていた、といいます。ちなみに現在「覇陵橋」は許昌の市街地からやや郊外に行った場所に再建されており、観光名所となっています。
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