半年の包囲戦を耐え抜く
包囲から半年が経過し城内では栄養不足と不衛生な環境から疫病がまん延し、城内の半数の人々が感染します。ある人が羅憲に脱出を促しますが羅憲は「私は城主であり人民に仰ぎ見られる存在であらねばならぬ、危険だからといって民を見捨てて逃げるのは君子のする事ではない」と拒否。
人民と共に玉砕する事を決意しますが、ここで魏から胡烈が率いる援軍が到着。陸抗はやむなく陣を解いて退却し永安は解放されました。司馬昭は呉軍を退けた羅憲を高く評価し、元の巴東太守の地位を与え同時に陵江将軍に任命します。
その頃、武陵郡の四県が呉に叛いたので羅憲は武陵太守、巴東監軍になりました。羅憲は西鄂県侯に封じられ妻子を洛陽に住まわせ、子の羅襲は給事中に任命されます。266年には洛陽に上り冠軍将軍・仮節に昇進し、268年には陳寿をはじめ多くの蜀の旧臣を推挙しました。
羅憲が入朝したあとに呉の武陵太守孫恢が南浦に攻め込んできますが羅憲の参軍の楊宗がこれを討ち敗走させます。これにより羅憲は楊宗を武陵太守とするように上奏、任地に戻り南浦に駐屯し武陵蛮を呼応させて三県とその民を得ました。呉の巫城を攻略し、呉を討つ献策をしましたが泰始6年(270年)死去します。
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三国志ライターkawausoの独り言
羅憲は蜀滅亡後の戦争を戦う稀な体験をした人物です。本来なら主君が降伏した以上は、城を守る義務もないのですが盟友だと信じた呉の非情な措置に憤慨し圧倒的に不利な状態で戦い抜く離れ業を見せました。その能力は司馬昭の目に留まり、羅憲のみならず多くの旧蜀臣が晋で登用されるきっかけにもなりました。
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